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2006年11月

2006年11月28日 (火)

墨攻

19334817 昨日、通勤の往復で、「墨攻:酒見賢一著」という本を読んだ。来年初、この本を題材に漫画化されたものが映画化される。この本は、中島敦記念賞を受賞している。中島敦は、かの「山月記」の作者だ。正直非常に短い本で、あっというまに読み終えた。墨とは入れ墨のことらしい。すなわち墨子は入れ墨の人という感じだ。宋の生まれといわれている。そういえば孔子も宋の生まれだ。ちなみに宋の国は、周が滅ぼした殷の一族の国である。墨子は、元々は大工だとも言われている。それが後の守城の武器造りに活かされる。墨子は孔子同様に学団をつくります。これを墨家集団といいます。墨家は二代目鉅子(指導者)禽滑釐の時に思想統一がなされました。この本は、それより後の話となります。さて非攻墨守という言葉がある。墨守とは、{墨子がよく城を守り通し、楚軍を退けたという故事から}昔からのしきたりや自説を固く守ることを言う。秦の始皇帝以降、2000年という中国の長い歴史から跡形も無く消された「墨家集団」の逸話としては面白いが、墨子の根本である兼愛思想からすれば、城を守る規律のために、人を罰し斬首する光景は少し違和感を覚えた。まあ如何なる映画となるのか楽しみである。映像にすると緊迫感のあるものになるかも知れない。

ちなみに

墨子 第十七:非攻上

今ここに1人の男がいて、他人の果樹園に忍び込み、桃や李を盗んだとしましょう。民衆がそれを知ったならば、それを悪だと非難するでしょうし、統治者がその男を逮捕したなら、処罰するでしょう。それはどうしてでしょうか。他人に損害を与えて自己の利益を得たからです。他人の犬や鶏や豚を盗む者は、桃や李を盗む者よりも、その不義は一層甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、さらに大きいからです。他人の馬や牛を奪い取る者は、犬や鶏や豚を盗む者よりも、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。およそ他者に損害を及ぼす程度が多くなるにつれ、その行為が不仁である度合もますます増大し、その罪もいよいよ重くなるのです。何の罪もない人間を殺害して、着ていた衣服を剥ぎ取り、所持していた戈や剣を奪い去る者に至っては、馬や牛を奪い取る者より、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。ところが今、大規模な不義を働いて、他国を攻撃するに至っては、だれもその行為を非難することを知りません。攻伐を称賛し、その行為を正義の戦いなどと評価しています。1人の人間を殺害すれば、社会はその行為を不義と判定し、必ず死刑に処します。こうした殺人罪に関しては天下の君子たちの誰もがこれを非難すべきことと認識し、これを不正義だと判断しています。ところが今、大掛かりな不義を働いて他国を侵略するに至っては、一向に非難すべきことを知りません。侵略を褒め称えては、義戦などと美化しています。つまり彼らは、実際に侵略戦争が不義であることを認識していないのです。今ここに人がいるとしましょう。その人間が少量の黒色を見たとき黒だといい、多量の黒色を見たときには白だと言えば、人々はその人間を白と黒の識別すらつかぬ者だと判定するでしょう。あるいは、苦いものを少し嘗めては苦いといい、苦いものを大量に嘗めては甘かったなどといえば、だれもがこの人間を甘い苦いの弁別さえできぬ者だと判定するでしょう。今の君子たちは、小規模な悪事は犯罪だと認識して非難しておきながら、大規模な悪事を働いて他国に侵攻すれば、それを褒め上げ、これぞ正義だと吹聴しています。これでは、はたして正義と不義との区別を知覚しているなどと言い張れるでしょうか。

墨子 第十四:兼愛上

混乱の原因を考えてみると、それは相互に愛し合わないことから発生しています。臣下や息子が君主や父親に孝でないのが、混乱のひとつです。また父親が息子を慈まず、君主が臣下を慈しまないという場合も、混乱のひとつです。
世間で盗賊を働く者も、我が家だけを愛して、他人の家を愛そうとしないから、他人の家から盗んで、それを我が家に利益をもたらそうとします。賊人も我が身だけを愛して他人を愛さないので、他人から奪って我が身に利益をもたらそうとします。大夫が互いに相手の家を混乱させ、諸侯が互いに相手の国を攻撃するのも、これと同様です。
世界中のあらゆる種類の混乱は、いずれも互いに愛し合わないことが原因です。

もし世界中の人々に自己と他者とを区別せずに愛し、他人を愛することまるで我が身を愛するかのようにしたなら、それでもなお孝でない者がいるであろうか。そうなれば国家と国家は互いに攻伐せず、家門と家門は互いにかき乱さず、盗賊もいなくなり、君主と臣下や父と子の間も、すべて孝慈の関係で結ばれるであろう。このようであれば、間違いなく世界中が安定します。

とあります。

「兼愛」はキリスト教の「慈愛」であり、この非攻は、世界平和に通じるが、墨子を生んだ中国とキリスト教を信仰する人々の国が世界で一番殺戮を犯しているのは皮肉としか言いようが無い。

2006年11月26日 (日)

十字架上のキリストの最後の7つの言葉

Uccg1193emersonsq久しぶりにCDを購入。ハイドン作曲 弦楽四重奏曲版 「十字架上のキリストの最後の言葉」~エマーソン弦楽四重奏団 である。輸入版を買ったので、1000円程安かった。はじめ司祭による言葉と管弦楽という編成で作曲されたこの作品は、後に作曲者自身によって弦楽四重奏曲用に編曲され、これが人気を呼び、さらには独唱、合唱、管弦楽による大規模なオラトリオ版も作曲された。スペインのカディス大聖堂の依頼により作曲されたもので、聖金曜日に、福音書の七つの言葉を読み瞑想する時間に演奏されるための音楽となっている。調性は、ニ短調。

  • 序曲
  • 第1ソナタ 「父よ!彼らの罪を赦したまえ」 Largo
  • 第2ソナタ 「おまえは今日、私と共に楽園にいる」 Grave e cantabile
  • 第3ソナタ 「女性よ、これがあなたの息子です」 Grave
  • 第4ソナタ 「わが神よ!何故私を見捨てたのですか?」 Largo 
  • 第5ソナタ 「渇く!」 Adagio
  • 第6ソナタ 「果たされた!」 Lento
  • 第7ソナタ 「父よ!あなたの手に私の霊を委ねます」 Largo
  • 地震 Presto e con tutta la forza

ほとんどが緩徐楽章からなるこの異色作の演奏には、静謐なテンションの持続、響きの純正さ、デリケートなニュアンスといった要素が求められる。

演奏のエマーソン弦楽四重奏団は、アメリカが建国200年を祝った記念すべき年である1976年に、フィリップ・セッツァーとユージン・ドラッガーというジュリアード音楽院に学ぶふたりのヴァイオリニストが、同窓生の他ふたりと一緒に結成した弦楽四重奏団である。
エマーソン弦楽四重奏団というこの演奏団体の名称は、アメリカの偉大な哲学者であるラルフ・ウォールド・エマーソンの名前に由来するものである。エマーソン弦楽四重奏団の結成後すぐにときめきと頭角を現し、2年後の1978年にはナハトマジーク室内楽賞を受賞した。そして、1980年にワシントンD.Cスミソニアン・インスティテートのイジデント・クワルテットになった彼らは、その2年後にはニューヨークのリンカーン・センター室内楽協会の第1レジデント・クワルテットにも迎えられ、それ以後は、ハートフォード大学のハート音楽学校で教授活動と演奏活動を行うレジデントになり、1983年にはアスペン音楽祭のレジデント・クワルテットとしても活動するようになった。1985年に初めてヨーロッパに演奏旅行を行なってセンセーショナルな成功を収めた彼らは、間もなく現代を代表する弦楽四重奏団のひとつとして数えられるようになったが、高度な演奏技術とシャープなモダンな感覚を兼備」した彼らはそれによって伝統と矛盾することのない新鮮でみずみずしい演奏様式を打ち出している。(グラモフォン:コメントより)

管弦楽版は持っていたので、とにかく「弦」が聴きたくて。聖堂で聴くには、管弦楽版のほうがいいかもしれないが、弦の引き締まった音は、第一音から背筋に電気が走るのだ。十字架のキリストを瞑想するには、弦楽四重奏曲があっているかもしれない。素人には、音楽性はわからないが、序曲と終曲{地震}以外、7つの言葉に合わせソナタが並ぶという異色さは、ハイドンならではかもしれない。

それでは、序曲introduzione_i__maestoso_ed_adagio(クリック)をお楽しみください。 コメントもお寄せください。

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2006年11月 9日 (木)

亀裂 ERC HOT

2006_11090006 これが、亀裂の入った ERC HOTのフェイスだ。原因不明である。いつも芯ばかりで打ってるからだろうか??? (いや そんなことはない)14回で1・2度あればいいはずなのだが・・・・

2006年11月 4日 (土)

芸術の秋 - モーツァルトを語る 第5弾

Mozart21 やはりこのところ、モーツァルト生誕250年でTV番組がよく組まれている。昨日も日本テレビで天才の謎をテーマに2時間番組が。ミーハーの私はつい見てしまう有様。そういえば、月9の「のだめカンタービレ」も娘の影響で見ているこの頃である。2台のピアノのためのソナタ 二長調 K.448が、早速出てきたのには驚かされた。なにせモーツァルトは、<2台のため>は1曲しか作曲していないのだから。

さて第五弾は、「大ミサ曲ハ短調K.427」である。

これは、残念ながら未完の曲である。「クレド」は、途中のエト・インカルナトゥスは一部未完であり、クルチフィクスは書かれていない。「アニュス・デイ」は完全に欠落している。現在は、未完部分を補ったアロイス・シュミット版かロビンス・ランドン校版、最新のレヴァイン版が用いられる。この曲は、誰からの依頼でもなく自分のために作曲されたものらしいが、初演でのソプラノは妻 コンスタンチェがつとめている。「キリエ」のソプラノの独唱にまず圧倒されてしまう。あわれみたまえ とはこういう音なのかと信じさせるにたるメロディーである。その音の先にキリストの十字架が臨める。(カトリック教徒でもないのに)不思議だ。グロリアの最終節の壮大なフーガは見事で、まるでオペラのラストのような輝きを放つ。クレドは、やっぱり エト・インカルナトゥス・エストのフルートとソプラノの美しい掛け合いだろう。神の恩寵はこうしてもたらされると言われれば、納得するかもしれない。ちなみに私のCDは、ウィーンフィル:レヴァイン指揮 ソプラノは、キャサリン・バトルである。ブラボー アマデウス!!

それではkyrie_eleison(クリック)をお楽しみください。

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ERCⅢ

270891_3 ドライバー買ってしまいました。Callaway ERCⅢ です。先週のコンペで突然、ERC HOT (使用 1年2ヶ月)のフェイスの中心が割れてしまい思い切って買い換えました。実は、欲しいなと思っていたので、背中を押してくれて感じです。グリップが細めなため、それでなくてもかぶりやすい癖があるので、二木ゴルフですぐに太めにしてもらいました。HOTのようなキーンという馬鹿でかい金属音もなく、すーっと飛んでゆく感じです。やはりここ一番のあたりはHOTの方が断然飛ぶようですが、Ⅲは、安心感があります。弾道もそれほど吹き上がる感じがしない、ランも出そうで、これからの季節はいいかもしれません。ちょっと早い自分の誕生日プレゼントとなりました。

2006年11月 3日 (金)

芸術の秋 - モーツァルトを語る 第4弾

Mozart_1756 第四弾は、「ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466」である。モーツァルトには、短調のピアノ協奏曲が2曲しかない。20番と24番だ。どちらも名曲である。この曲は、低音域で蠢く悲劇的な音で始まる。悲しみを奏でるピアノは圧巻。弦楽器のシンコペーションは重苦しく、哀願するピアノはカデンツァまで一瞬の緩みもなく続く。心を突き刺すようなファルテシモは、暗闇に出会った死神への驚きのようで恐怖がつきまとう。つづく第二楽章は、ロマンスと呼ばれている。変ロ長調による陽だまりのような甘美なメロディーで始まるが、突如として中間部のト短調では、嵐のような激情につつまれる。また、変ロ長調に戻り安らぎを迎える。第三楽章は、明るいリズムでハッピーエンドのようなエンディングを迎える。何故、この時代(宮廷音楽花盛り)にこのような曲が書けるのか?天才としか言い表せない。さて1984年アカデミー賞作品賞、主演男優賞、監督賞、脚色賞、美術賞、衣裳デザイン賞、メイクアップ賞、音響賞の8部門の受賞に輝いた「アマデウス」に、この第一楽章と第二楽章が使われている。第一楽章は、サリエリが、父レオポルドに扮するためにマスクを買い、モーツァルトに鎮魂ミサ曲を依頼する場面で使われ、第二楽章は、ラストのサリエリが車椅子で去ってゆくエンディング、エンドロールに使われている。とにかくブラボー、アマデウス!!

それでは、第二楽章k_466_2 (クリック)をお楽しみください。

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