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2007年2月

2007年2月25日 (日)

3分間~モーツァルトを語る 第12弾

Photo_2 誰もがこの3分間で優しい気持ちになれると思っている曲を紹介しよう。第12弾は、「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲変ロ長調 K424」です。友人のミヒャエル・ハイドンはコロレド司教から6曲のヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲を命じられるが、4曲を完成させたところで、病気になってしまう。当時ウィーンに住んでいたモーツァルトは、妻のコンスタンツェとともにたまたまザルツブルクに帰省した際、ミヒャエル・ハイドンが病気で役目を果たせないでいることを知り、ミヒャエル・ハイドンの手法にならって急遽作曲したのが、K423,K424の2曲である。たった2日で仕上げたといわれている。ミヒャエル・ハイドンといえば、こんにち欠番になっている交響曲第37番の本当の作曲者で、時間がない売れっ子だったモーツァルトが急遽、序奏をつけて演奏した曲です。それで、現在は欠番にしているか、序奏のみ演奏するかのどちらかになっているのです。さてK424に戻ります。第一楽章の出だしは、弦楽四重奏曲のK387の第4楽章の出だしと同じ音使いで始まります。その後の歌うようなヴァイオリンは美しくヴィオラを従えて軽やかに踊っていきます。第二楽章のアンダンテ・カンタービレは、人の心を優しくしてくれます。腹が立って納まりがつかない時はこの曲を聴いてください。きっと心が静かになれます。それでは、第二楽章をお聴き下さい。

k.424 - 2.Andantecantabile(クリック)。コメントもお寄せください。

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春はそこまで

我が家のクリスマスローズが咲いた。いつも下向きに咲くので写真を撮るのは苦労する。薔薇の芽も出始めています。 もうすぐ春ですね。しかし、風邪は今日も治らず。熱も,とうとう38度に。また、つらい一日となりそうだ。

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2007年2月24日 (土)

オーボエの名曲~モーツァルトを語る 第11弾

Df3c07aab5d714f7ce1am 第11弾は、オーボエ。といっても「のだめの黒木君」のオーボエ協奏曲ハ長調K314ではありません。期待された方、ごめんなさい。「オボーエ四重奏曲ヘ長調K370」である。名オーボエ奏者にして友人のフリードリッヒ・ラムのためにミュンヘンで作曲されました。第2楽章には、めずらしく「カデンツァ」の機会が与えられています。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロはオーボエの引き立て役に留まることなく、時には主役のオーボエと積極的に対話をしていくところも魅力の一つです。しかし何といってもオーボエの美しい音に皆魅了されずにはいられないでしょう。オーボエ奏者にとっての至宝の一曲です。今日は、病気のため頭がさっぱり廻らず、うまい言葉がでてきません。それでは、mozart_k.370 (クリック)お聴きください。演奏はAmerican Baroqueです。

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2007年2月21日 (水)

楊家将

2_1 1北方謙三「楊家将」を読んだ。時代は、唐が滅んだ後の五代十国時代の後半、宋(北宋)が統一を図らんとしていた頃である。中原に拠った宗が呉越を下し、乱立していた小国のうち残っているのは北漢のみ。しかしこの北漢には、楊業率いる楊家軍あり。楊業は音に聞こえた名将であり、7人の息子たちもそれぞれに一流の武将である。「楊家将演義」前半ををもとに描かれたこの小説は、実にさわやかであった。続編がでているらしい(血涙)が、こちらも是非読みたい。北漢から宋へ帰順し、外様ながら死を賭して闘う楊家軍には、思わず感動してしまう。印象的なのはなんといっても戦闘シーンの躍動感溢れる描写である。騎馬隊のスピード感がまるで映像のように伝わってくる。人物の個性も見事に表現している。敵でありながら、一個の英雄として描かれている「白き狼」こと耶律休哥<ヤリツキュウカ>は、クールでカッコいい。遼の皇后「蕭太后」も有る意味英雄の力量があり、かの則天武后のようだ。戦闘で死んでゆく息子達も、それぞれ個性的だ。あっといううまに読み終えていた。第38回吉川英治賞に輝いている。おすすめの一冊だ。

2007年2月20日 (火)

留魂録 その3

一 (続く)

去年来の事、恐れ多くも天朝・幕府の間、誠意相孚(フ)せざる所あり。天、苟も吾が区々の悃誠(コンセイ)を諒し給はば、幕吏必ず吾が説を是とせんと志を立てたれども、蚊蝱山(ブンポウザン)を負ふの喩、終に事をなすこと能はず、今日に至る、亦吾が徳の非薄なるによれば、今将に誰れをか尤(トガ)め且つ怨まんや。

昨年からの情勢を見ると、恐れ多くも朝廷と幕府の間には、互いに誠意が伝わらない所があり甚だ残念に思う。私の小さくてつまらないながらも一途に貫こうとする誠意をわかってもらえたら、幕府の役人も私の説を聞いてくれるだろうと志を立てたのである。だが蚊や虻が山を運ぼうとしても無駄で、明らかに失敗する喩の通り、ついになすことなく今日に至ってしまった。これも私の徳が薄いためだから、今さら誰を咎め怨むことがあろう。

**********

ここには、松蔭先生の処刑に臨んでの自然体の境地が述べられているように思われます。ここに至っては、「死」によって「志」を遂げるしかないという境地にいきついていたものと思われます。一緒に起たなかった弟子も、先が見えない幕吏も誰も責めようとしない。ただ己の徳の薄さを嘆いている様は、汚れきった我々の強烈に心に響きます。

蚊蝱山(ブンポウザン)を負ふの喩は、荘子「秋水篇」に登場します。井の中の蛙大海をしらずも出ているところです。「知識が真偽を正確に把握できないのに、荘子を理解しようとすることは、蚊が山を運び、虫が河を渡ろうとするようなものだ。」という言葉があります。蝱の字は、アブという字です。

2007年2月18日 (日)

雨の日は何故か

Alessandrini1 雨に日は、何故かペルゴレージ「スタバト・マーテル」が聴きたくなる。スターバト・マーテルとは、13世紀のイタリアの修道士、ヤコポーネ・ダ・トーデが書いたとされるラテン語詩で、18世紀には「聖母マリアの七つの悲しみの祝日」のためのセクエンツィアとしてローマ教会の公式ミサ典礼曲に採用された。普通、「悲しみの聖母」と訳されることが多いだろうか。わが子イエス・キリストが磔刑となった際、母マリアが受けた悲しみを思う内容となっている。ペルゴレージのスターバト・マーテルは、ソプラノとアルトの二重唱に弦楽というシンプルな編成で、美しいメロディとハーモニーを響かせる30分ほどの音楽で、病弱であったペルゴレージの最後の作品でもある。ペルゴレージは、若くして26歳でこの世を去っているのだが、病床でこの曲に取り組んでいたところは、モーツァルトを彷彿させる。さてこの曲は、12章(曲)からなっていますが、とにかく一曲目から惹きこまれ美しさを持っています。たまには、こういう曲を聴く休日があってもいいかな。

歌詞)

悲しむ聖母がたたずんでおられた。
十字架の下で涙にむせばれていた。
御子が十字架にかかっていたからです。

嘆かれ
悲しまれ、苦しまれる聖母の魂を
剣が刺し貫いていたからです。

おお、なんという悲しみと傷つき方だろう、
祝福された
神のひとり子の母だったというのに。

聖母は悲しみ、苦しまれていた。
聖母はふるえ、見つめておられた。
誰も知らぬ人はいない御子の救いのわざを。

涙しない者がいるだろうか、
キリストの母を目にして。
そのような苦しみの中の聖母を見て。

悲しまない者があろうか?
あわれみ深い聖母のことを思い浮かべて。
御子と共に苦しまれた聖母のことを。


ご自分の民の罪のために
イエスが責められ、
鞭打たれるのを聖母は見ておられた。

愛する御子が
死の苦しみに打ちすてられ、
息絶えるのを見ておられた。

ああ、愛の泉である御母よ、
わたしにもあなたと同じ悲しみを感じさせ、
あなたと共に苦しませて下さい。

聖母よ、お願いします。
十字架の傷を
わたしの心の力とさせて下さい。

あなたの御子が傷つけられたのは
わたしのためでした。
わたしにもその苦しみを分け与えて下さい。

あなたと共に真実の涙を流し、 
十字架の苦難を味合わせて下さい。
わたしが生きている限り。

十字架の下であなたと共に立ち、
進んであなたと
悲しみを共感したいのです。

乙女の中でもすぐれた乙女よ、
どうかわたしを退けずに
一緒に嘆かせて下さい。

わたしにキリストの死と
受難の道を歩ませて下さい。
わたしにイエスの傷をもう一度つけて下さい。

わたしに傷を負わせて下さい。
十字架を味合わせて下さい。
御子の愛に報いるために。

地獄の火と炎から
乙女よ、わたしをお守り下さい、
裁きの日には。

わたしを十字架によって守護し、
キリストの死によって守り、
わたしを恵みで満たして下さい。

この体が死を迎える時、
わたしの魂に
天国の栄光を与えて下さいますように。
アーメン。

12曲目「肉体は死んで朽ち果てるとも」は、以前(06/5/1)、映画「アマデウス」で使われていたと書いたが、今日は、第5曲目「Quis est homo~涙しないものはいるだろうか」を紹介する。まず、ソプラノとアルトが語り合うように交互に歌い始める。終盤突如として、鞭打ちのような8分音符の連打が入る。それでは、お聴きください。音源は、古楽器による、アレッサンドリーニ/コンチェルト・イタリアーノ盤です。弦は一声部ひとりだけ(5人)の最少人数編成。ほとんど室内楽です。鋭角的な古楽器奏法でアクセントを効かせ、歌唱も表情たっぷり、聖母マリアの慟哭を見事に表現した、個性的で緊張感あふれる演奏です。05pergolesi_quis_est_homo(クリック)。

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2007年2月17日 (土)

留魂録 その2

一(続き)

然るに五月十一日関東の行を聞きしよりは、又一の誠字に工夫をつけたり。時に子遠死字を贈る。余是を用ひず、一白綿布を求めて、孟子の「至誠にして動かざる者未だ之有らざるなり」に一句を書し、手巾へ縫ひ付け携へて江戸に来り、是を評定所に留め置きしも吾が志を表するなり。

(訳)

然しながら、5月11日の東送の命令を聞いてからは、「誠」という字について考えてみた。すると、たまたま杉蔵がこんどは「死」の字を私に見せて、死を覚悟するよう説いてくれた。私としては、そのことは考えないようにし、一枚の白木綿の布を買い求めて、孟子の「至誠にして動かざる者未だ之有らざるなり」の一句を書いて、手拭に縫いつけ、江戸の携えてきた。そして、評定所に留めおいたのも、自分の意志を表すためであった。

**********

孟子 離婁章 上第十二に「至誠にして・・・」の言葉はある。ちなみに離婁とは、伝説上の人物で、視力が非常にすぐれ、黄帝が珠を失った時、命を受けてこれを探した。離婁は百歩はなれても獣の毛の先をよく見分けたといわれている。さて松蔭先生は、山鹿流兵学者であったが、孟子に傾倒している。孟子の性善説が松蔭先生の心を惹きつけたものと推測する。だが民本思想にある易姓革命は当然否定していたものと考えられる。先生は、野山獄にあった時、牢内にて孟子講義を同じ牢人達に行なっている。(他に、獄中1年2ヶ月 松陰先生は492冊の書物を読んだとのこと)それが後に「講孟箚記」または「講孟余話」となって残っている。「講孟箚記」で松陰先生は、至誠を以下の如く説明している。

文王至誠にして、老を養ふ。故に伯夷・太公動きて興起するなり。天下の人皆動きて是に帰するなり。文王の心、初めより伯夷・太公を動かさん、天下の人を動かんとの心あるに非ず。若し此の心あらば至誠非ず。

(訳)

周の文王は、至誠をもって老人を養った。それ故に伯夷や太公望が感動して奮起したのである。天下の人が感動して王に心を寄せたのである。しかし、文王の心では、その初めに伯夷や太公望を感動させよう、天下の人々を感動させようという下心があったわけではない。もしこの下心があったならば、どのようなことをしても、それは至誠ではない。

と書いている。すなわち、ただ一途の真心こそが至誠であり、松陰先生の生き様の原点であったといえよう。松陰先生は、確かに最後、少し我々から見ても「純真無垢」なゆえに危なっかしい行動が見られる。その行動に際し、高杉や久坂は時期尚早だから静観するようにという。これに対し松蔭先生は大いに怒る。国事は傍観するものではない、「諸友は功業をするつもり、僕は忠義をするつもり」と書き送っている。いかにも松蔭先生らしい激烈さと純真さが出ている。常に下心なく真心をもって一生を生きていく姿に圧倒されずにはいられない。実際、この「至誠」の生き様が多くの弟子達の心に灯りをともし、彼らもまた感化され、感動し行動したのである。晋作も当然その一人である。晋作もまた「至誠」をもって行動し、後に続く者たちの心に灯りをともしたのである。

高杉晋作は、1859年、江戸の伝馬獄に囚われた松陰先生と別れ、萩に帰国した後に一遍の詩を詠んでいる。

我亦藩屏一介臣 満胸豪気幾時伸 

書読了草堂静 笑殺世間名利人
(読み下し)
われまた藩屏(ぺい)一介の臣 

満胸の豪気いずれの時にか伸びん
課書読み了って草堂静かなり

笑殺す世間名利(みょうり)の人

「功名や利欲のみを求める者をあざ笑って退ける」と歌う。この時、晋作の心には功業はない。ただ至誠あるのみか。

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(クリック)してご覧下さい。至誠Tシャツです。

2007年2月16日 (金)

札幌 猛吹雪 そして「ふたくちーず」

今週、水曜日に札幌へ出張に出かけ、今日東京へ戻りました。水曜日は夕刻より北海道の天気が激変し、飛行機は最悪「函館空港」へとのアナウンス。それなら羽田へ戻ってくれよと祈りたい気持ち。しかし、奇跡的に千歳へ無事着陸。飛行機も電車も遅れはしたが、またも強運がはたらいた。なんと次の便からは欠航になったらしい。うん 日頃の行いのおかげか。しかし札幌駅を降りると、とんでもない猛吹雪。タクシーを待つこと10分。その間にこのまま凍えるかと思われた。昨年の冬より何度も訪れているがこんな経験は初めてだった。恐るべし北の大地。そんな札幌から今回のご紹介は、煉瓦屋の「ふたくちーず」。クリーミーなチーズケーキです。2口サイズにカットされた食べやすい大きさ。上からサワークリーム、チーズケーキ、タルト生地となってます。1個1個セロファンに包まれています。札幌の部下の女性に紹介され千歳空港で探したが見つからず。こちらもイケるらしい。今度は是非買いたい。札幌はとにかくお土産に困ることはありませんね。いろんなおいしそうな菓子類があります。

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2007年2月12日 (月)

アリアのごとく~モーツァルトを語る 第10弾

Colmar11 記念すべき(自分だけだが)第10弾は、「ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K.216」である。モーツァルトは、ヴァイオリン協奏曲をわずか5曲しか(7曲ということもあるが)書いていない。それも、19歳(1975年)にしか作曲されていないのだ。(不思議です:名曲K364はありますが)とにかく3番の明朗にして優雅な美しい旋律には溜飲が下がります。第一楽章は、ソナタ形式。まず重音で始まるリズミカルな第一主題(おしゃべりをやめない貴族らを音楽に惹きつけるがごとく)、ホルンが引き継ぎオーボエが応える流れるような素朴な第二主題、そして壮大な展開部へ。そして第二楽章には、まいります。あの映画「アマデウス」でのサリエリのように楽譜を落としてしまいそうです。弱音器をつけた弦の合奏と柔らかいフルートの音色の中で、独奏のヴァイオリンがデリケートな情感をもって柔らかく進んでいきます。優しい心を歌うアリアのように。第3楽章はアレグロのロンド形式で書かれていますが、主題の間に挿入された民謡調の軽快なアレグレットのメロディーがまたかわいらしいこと。しかし終わり方がちょっと淡白だけど。いずれにしてもどの章でも、時折覗かせる短調がまた抜群の味付けとなっている。それでは、その中でやっぱり第二楽章をお聴きください。演奏は、アーノンクル+クレーメルです。グリュミオーを期待した方々すいません。

k.216 - 2.Adagio (クリック)。

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2007年2月11日 (日)

留魂録 その1

余去来巳来心蹟百変、挙げて数へ難し。就中、趙の貫高を希(コイネガ)ひ、楚の屈平を仰ぐ、諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙多士一貫高。荊楚深憂只屈平」といふも此の事なり。

(訳)

私は、昨年来実に様々な思いが移りかわって、それは数え切れないほどである。なかでも特に私がかくありたいと願ったのは、趙の貫高であり、楚の屈平であることは諸君のすでに知るところである。だから、入江杉蔵(子遠)は、私が江戸送りになると知って、「燕や趙にすぐれた士は多いが貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を憂う人は屈平だけであった。」という送別の詩を贈ってくれたのである。

**********

まず登場する貫高は、趙の国の丞相である。王は、張敖(あの張耳の子)。漢の高祖(いわゆる劉邦)が趙王を侮辱したのを怒り、高祖暗殺を考える。しかし趙王 張敖は自分の指を噛んで血を出し、二心のないことを誓い「おまえたちは何ということをいうのか。先君(張耳)はいったん国を失われた。しかし高祖のおかげで国を回復することができたのだ。 その恩沢はわれら子孫にまで及んでいる。どうか二度と、このことを口にしてくれるな」と言う。しかし貫高と趙午ら10余人は「我らの王は温厚な長者であり、徳義に背く人ではない。が、我らも義として、趙王が辱められたのを黙視するには忍びない。 いま高祖を殺すことが、どうして王の徳をけがすことになろう。事が成就すれば功を王に帰し、失敗すれば、我らが罪を受けよう」と言った。B.C.199 高祖は東垣から帰る途中、趙を通った。貫高らは柏人の宿舎の壁の中に人を置き、待ち伏せて高祖を殺そうとした。高祖は柏人に宿泊しようとして 「県名は何というか」と聞くと「柏人県と申します」との答えである。高祖は「柏人とは、人に迫ることだ」として不吉に思い、宿泊しないで去ったので、 貫高の計画は失敗した。B.C.198 密告があり貫高らの陰謀はばれる。そこで高祖は張敖はじめ貫高ら一味を一斉に逮捕した。同志の者はみな自害したが、貫高だけは 「王は少しも陰謀に加わらないのにみな死んで、いったい誰が王の無実を証明するのか」と言い、囚人車に乗せられて長安に送られ、 張敖の罪が裁かれることになる。貫高は、鞭打たれること数千、鉄針をつきさされたりして、もはや打つべき皮膚がなくなったが「ただ自らの仲間だけで謀ったことで、王は何も知らないのだ」と陳述した。 獄官が貫高を取り調べた顛末を言上すると、高祖は「なかなかの壮士だ。誰か彼を知っている者で、私情で聞き出すようにせよ」と言った。 中大夫の泄公が 「わたしは彼と同邑で、旧知の間柄であります。もともと名を立て義を守って、人に凌辱されず、然諾を重んずる人物であります」と言ったので、高祖は泄公に貫高を訪問させた。泄公は貫高の苦痛をいたわり、平生の心おきない口調で語り合った。貫高は、つぶさに事の起こった原因と、王がこれに関知しなかった事情を述べた。泄公は詳細を報告し、高祖はついに張敖を赦免した。そして高祖は貫高の人となりが然諾を重んずるのを賢明とし、泄公をやって貫高をも赦すと伝えさせた。貫高は喜んで「わが王は確かに釈放されましたか」と言った。泄公は「確かに。さらに上にはあなたの振舞いを多とされ、あなたをも赦されたのです」と付け加えた。 すると貫高は「わたしが死のうとしなかったのは、王の無実を明らかにしたい一念からです。いま王が釈放されたうえは、わたしの責任はすでに果たされ、死んでも恨みはありません。それに人臣として簒殺の汚名を蒙ったからには、何の面目があって再び上に仕えられましょう。どうして我と我が心に恥じないでおられましょう」と言い、 仰いで頚動脈を切り、ついに自殺した。

これが貫高である。

次に登場する屈平は、屈原とも言われている。楚の憂国の詩人である。

あるとき、屈平の才能を嫉んだ上官大夫が懐王に「屈平は自分の功を誇り、驕っている」と讒言する。懐王は怒って屈平を遠ざけた。屈平は王が臣下の言葉を聞かず讒言阿諛の徒が聡明を蔽い、邪説曲論が国事を阻害して方正の士が受け入れられぬのを無念に重い、憂愁幽思して『離騒の賦』一篇を作った。またある時、楚と交戦中であった秦が和睦を申し出てきた。楚王(懐王)は「土地は望まぬ。願わくは張儀を得たい」と張儀の身柄を要求した。張儀は「一介の儀の身が漢中の地に相当するなら」と進んで楚に赴いた。しかし、張儀は詭弁を弄して懐王の寵姫鄭袖に取り入り、鄭袖の言葉聞き入れた懐王は張儀を許して秦に帰らせた。このとき屈平は使者として斉に行っていたが、楚に帰って懐王を諫め「どうして張儀を殺さなかったのですか」と責めた。懐王は後悔して張儀を追跡させたが、時既に遅しであった。さらにある時、秦の昭王は楚と婚姻を通じようと懐王に会見を申し入れた。懐王が出かけようとすると、屈平は「秦は信用できません。行くべきではありません」と忠告した。が、王の末子子蘭は「どうして秦の好誼を拒めようか」と行くことを勧めた。果たして懐王は秦に出向き、秦の地で世を去るのである。子蘭は屈平が自分を憎んでいると聞いて大いに怒り、屈平を江南に移した。屈平は江水の畔を彷徨っていた。そのとき、一人の漁夫が行き会うと「なぜあなたがこのような処に?」と問う。屈平は、「世を挙げて混濁しているのに、我一人が清く、衆人が皆酔うているのに、我一人が醒めているので追放されたのだ」と語った。「聖人というものは物事にこだわらず時世とともによく推移するもの。世が混濁しているのなら、どうしてその流れに従いませぬか。衆人が皆酔うているなら、どうしてあなたも酔いませぬか。あなたほどの才能を抱きながら、なぜ自ら追放されるようなことを」。「『新たに沐する者はかならず冠の塵をはたき、新たに浴する者はかならず衣の埃をはらう』。誰がその身の清浄に塵や埃を蒙るに堪えよう。むしろ長江の流れに身を投じて葬られるほうがましだ!」こうして屈平は『懐沙の賦』を作り、石を抱いて汨羅に身を投じてその幕を閉じたのである。

これが、屈平である。

子遠こと入江杉蔵は、「松下村塾四天王」と呼ばれた一人である。他の三人とは高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎。吉田栄太郎こと吉田稔麿は、1864(元治元)6月 池田屋事件で、割腹し、1864(元治元)7月 蛤御門の変で、久坂玄瑞(23歳)、入江杉蔵(25歳)は、戦死 している。

**********

さて高杉晋作は、1863年に騎兵隊を結成し活躍するが,翌1864年、野山獄にて80日余り獄中生活を送っている。その時に以下の古詩を詠んでいる。

君不見死為忠鬼菅相公 霊魂尚存天拝峰 又不見懐石投流楚屈平 至今人悲汨羅江 自古讒間害忠節 忠臣思君不懐躬 我亦貶謫幽囚士 思起二公涙沾胸 休恨空為讒間死 自有後世議論公
(読み下し)
君見ずや死して忠鬼となる菅相公/霊魂は尚存す天拝峰/又見ずや石を懐にして流れに投ず楚の屈平今に至って人悲しむ汨羅の江/古より讒間忠節を害す/忠臣は思を君いて躬を懐わず/我亦貶謫幽囚の士/二公を思い起こせば涙胸を沾す/恨むを休めよ空しく讒間の為に死すを/自ら後世議論の公なるあり

讒言のため、「忠臣」であるにもかかわらず不当な末路をたどった菅原道真と屈平に、晋作は自らの境遇を重ね合わせ涙を落とし、そして苦境を克服しようとした。特に評価を後世に委ねるという最後の一節が、たとえ「狂人」と呼ばれて孤立しても、時代の壁に立ち向かおうとした晋作の意志の強さを示しているが、当然、屈平のくだりは、1859年、すなわち5年前に亡くなった松陰先生の思いを同時に重ねていたと思われます。

その1 終わり

反省

我がブログへの検索ワードを見ると、「留魂録」「モーツァルト」この2つが圧倒的である。せっかくの訪問に対し、やはり「留魂録」について少しずつ書いていこうかなと思うこの頃である。

春の息吹

 先週・今週と春に備えて、庭の手入れに精を出している。水仙・クロッカスの芽が出始めておDscf0884Dscf0885り春の息吹を感じます。今年も、「日向みずき」から始まり「山吹」「馬酔木」「はなずおう」ときて、 クライマックスは「薔薇」だ。いつもより暖かいの少し早めに春の花々を楽しむことが出来るかもと期待している。さて4月から、次男:こうちゃんも中学生。スッタモンダあったが、ろくに勉強もせずに国立の附属中学へ合格したのでまずはひと安心。しかしまた、携帯購入がまっている。これで家族全員5台目となる。家計に占める食費を「エンゲル係数」、教育費を「エンジェル係数」と呼んでいるが、「モバイル係数」も認知され、いよいよ統計をとるべきではなかろうか と思う今日この頃である。

2007年2月10日 (土)

ノクターン

ノクターンといえば、ショパン?いえいえボロディンを忘れては困ります。今日は早くにリビングで爆睡したためこんな時間(2:30)に目が冴えてしまってます。そこで夜想曲を聴きながら・・・。ロシア五人組の一人ボロディンは、化学者でもあったとか。弦楽四重奏曲第2番ニ長調 第Ⅲ楽章 Andante 通称「ノクターン」はクラシックファンならずとも、ひょっとしたら一度は誰もが耳にしたことがあるかも。CMや美しい風景のバックで流すには最高の一曲だからです。癒されますねえ。それでは、ボロディン四重奏団の演奏でお聴き下さい。borodin_2(クリック)。よかったらコメントお願いします。 それでは私はもう一眠り。

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2007年2月 4日 (日)

文天祥

Ly1610_4_590 かの高杉晋作が、長府功山寺でわずか80人余で決起した直後、白石正一郎の末弟・大庭伝七にあてて手紙を書いたが、その最後につぎの詩がある。 

売国囚君無不至 捨生取義是斯辰 

天祥高節成功略 欲学二人作一人
国を売り君を囚(とら)え至らざるなし 生を捨て義を取るはこれ        この辰(あした)
天祥の高節成功の略 二人を学んで一人と作(な)らんと欲す

(訳)国を売り主君をとらえて俗論派は暴虐をきわめている。命を捨てて義をつくすのはまさにこのときである。文天祥(南宋の忠臣)の高節と鄭成功(清に抗した明の謀臣)の策略と、2人に学んで1人でなさねばならぬ。

あえて主君の城に弓を引く、晋作のなみなみならぬ決意が表われている。

さて、この漢詩に登場する「文天祥」は、隠れたる中国の英雄である。それも愛国の士であるから、さらにめずらしい。南宋の忠臣である。南宋の忠臣といえば岳飛をおいてないと思うが、文天祥も負けず劣らず中国では人気があるらしい。元と戦うのだがこれといって華々しい活躍をしているわけではない。しかし捕獲され死ぬまで獄中にある時、山に追い詰められた宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断る。この詩は、「人生、古(いにしえ)より誰か死無からん。丹心(たんしん※まごころ)を留取して、汗青(かんせい※史書)を照らさん」で終っている。「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容である。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでフビライは何度も勧誘するが、頑として受け入れない。この時、有名な『正気の歌』(せいきのうた)を詠んだ。文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖も広瀬武夫もそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。

『正気の歌』 文天祥

天地正気有り 雑然として 流形を賦(う)く 下りては則ち河嶽となり  上りては則ち 日星となる 人においては 浩然と曰い 沛乎として 蒼冥に塞(み)つ  皇路 清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く 時窮すれば 節即ち見れ一一 丹青に垂る

斉に在りては 太史の簡 晋に在りては 董狐の筆(ひつ)      秦に在りては 張良の椎(つい) 漢に在りては 蘇武の節

厳将軍の頭と為り 稽侍中の血と為る 張雎陽の歯と為り 顔常山の舌と為る
或いは遼東の帽と為り 清操 氷雪よりもはげし 或いは出師の表と為り  鬼神 壮烈に泣く 或いは江を渡る楫と為り 慷慨 胡羯(こかつ)を呑む 或いは賊を撃つ笏と為り 逆豎(ぎゃくじゅ)頭破れ裂く

この気の旁薄する所 凛烈として 万古に存す その日月を貫くにあたっては 生死 いずくんぞ論ずるに足らん 地維は頼って以て立ち 天柱は頼って以て尊し
三綱 実に命に係り 道義 之が根と為る 嗟 予(われ)陽九に遭い
隷や 実に力めず 楚囚 その冠を纓し 伝車 窮北に送らる
鼎獲 甘きこと飴の如きも 之を求めて 得べからず 陰房 鬼火闃(きかげき)として
春院 天の黒きに閉ざさる 牛驥 一そうを同じうし 鶏棲に鳳凰食す
一朝霧露を蒙らば 分として溝中の瘠と作らん 此の如くして寒暑を再びす
百れい 自ら辟易す 嗟(かな)しい哉(かな) 沮汝の場の 我が安楽国と為る
豈に 他の繆巧あらんや 陰陽も賊なう能わず

顧みれば 此の耿耿として在り 仰いで 浮雲の白きをみる
悠悠として我が心悲しむ 蒼天 なんぞ極まりあらん 哲人 日にすでに遠く
典刑 夙昔に在り 風簷(ふうえん)書を展べて読めば 古道 顔色を照らす

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(訳)

この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。

例えば、春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえている。
君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。
ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。

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自ら正気を貫き通した文天祥は3年の幽囚の後ついに殺された。

享年47歳。松陰先生は、これに強い影響を受けているが、晋作も同様であろう。

こうして幕末回天は動いてゆく。

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2007年2月 3日 (土)

ローディー~モーツァルトを語る 第9弾

Lodi_piazza_della_vittoria 第九弾は、モーツァルト14歳の作品「弦楽四重奏曲第1番 ト長調 K.80 {ローディー}」。モーツァルトは、13歳の時に始めてのイタリア旅行に出かけている。1969年12月13日から1971年3月28日までの1年4ヶ月もの旅行だ。その旅行でミラノからボロ-ニャに向かう途中「ローディー」という町で書かれたとされるのがこの作品だ。ローディーは、イタリアのロンバルディア州の県都で現在は人口4万強の小さな町である。最初は、第3楽章まで出来ていて18歳の時最終楽章のロンドを書き加えている。第1楽章のアダージョの透き通るメロディーは美しい。そしてこの曲は、モーツァルト独特の所謂、モーツァルト音型なるものが様々に登場する。「あっこの音!」ってな感じで。それでいて何故か聴いていてホッとする曲だ。14歳でね~。天才モーツァルトの将来を予見する1曲ではないだろうか。この曲の構成は極めて単純なためハーモニーは重要な要素です。それでは、透明で明るい音色の今はなきイタリア弦楽四重奏団でお聴きください。K.80.mp3 (クリック)。よかったらコメントもお願いします。

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2007年2月 2日 (金)

里仁篇

君子欲訥於言而敏於行。

(子曰く)「君子はにして、行いならんと欲す」と。

かくあるべきかな。

周公旦

Photo_6 酒見賢一「周公旦」を読んだ。このところ、酒見ものを漁ってしまっている。「陋巷にあり」が自分の肝にぴったりハマってしまった関係だろう。やはりこの本は抑えておきたい。孔子が生涯憧れ続け夢にまで見続けた周王朝の至高の聖人である。かの太公望と並び称されるであろうか。周代の儀式や儀礼について書かれた「周礼」「儀礼」は彼の著とされる。本書は、殷を滅ぼしたといえ西域の弱体である周を一大国家へ導く周公旦の「礼」の力とは如何なるものか?そこに焦点をあてる。周公旦は、偉大なる政治家か、それとも巫師(シャーマン)か。何故、彼は亡命先を楚に選んだのか、その謎に迫ります。 非常に短い作品だが、封神演義での文官のイメージでさして活躍もしていない周公旦の真の怖さを表現した面白い作品だった。

2007年2月 1日 (木)

アンダンテ カンタービレ

最近、TV・漫画「のだめカンタービレ」のおかげでクラシックブームだという。秋川雅史の「千の風にのって」が紅白出場でオリコン1位になったりもしている。それにしても確かにカンタービレという言葉が有名なった。さて私にとってカンタービレといえば、やはりチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品11の第二楽章~アンダンテ・カンタービレということになろうか。1876年12月、モスクワにきた文豪トルストイに敬意を表して、ニコライ・ルービンシテインは特別の音楽会を催した。この時「アンダンテ・カンタービレ」が演奏され、チャイコフスキーの隣に座っていたトルストイが感動のあまり、この曲を聴きながら涙を流しはじめたというエピソードは有名である。妹アレクサンドラの領地ウクライナのカメンカで職人がを歌っていた「ワーニャは長椅子に座って、コップにラム酒を満たす、満たしもやらずもエカチェリーナのことを思う」という歌詞の民謡をもとにしているらしいが、それにしても美しいメロディーである。どこまでも広がる大地を思い浮かべながら聴くといい。心を落ち着けたい時、心を休めたい時、ぜひどうぞ。それでは、andante_cantabile(クリック)をお聴きください。演奏はエマーソン四重奏団です。 できたらコメントもお願いします。

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