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2007年8月 4日 (土)

留魂録 その10

七、

吾れ此の回初め素より生を謀らず、又死を必せず。唯だ誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり。七月九日に至りては略ぼ一死を期す。故に其の詩に云ふ、「継盛唯当甘市戮。倉公寧復望生還」と。其の後九月五日、吟味の寛容なるに欺かれ、又必生を期す、亦頗る慶幸の心あり。此の心吾れ此の身えお惜しむ為めに発するに非ず。抑々故あり。去臘大晦、朝議巳に幕府に貸す。今春三月五日、吾が公の駕巳に萩府を発す。吾が策是に於て尽き果てたれば、死を求むること極めて急なり。六月の末江戸に来るに及んで、夷人の情態を見聞し、七月九日獄に来り、天下の形勢を考察し、神国の事猶ほなすべきものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々たり。吾れ若し死せずんば勃々たるもの決して汨没せざるなり。然れども十六日の口書、三奉行の権詐、吾れを死地に措かんとするを知りてより更に生を幸ふの心なし。是れ亦平生学問の得力然るなり。

私はこの度のことに臨んで、最初から生きる為の策をめぐらさず、また必ずしも死ぬものと思っていなかった。ただ私の誠が通じるか通じないか、それを天命に委ねるつもりだったのである。その後、7月9日になって、ほぼ死を覚悟するに至ったので、次のような詩をつくった。「継盛唯だまさに市戮を甘んずべし。倉公いずくんぞ復た生還を望まんや」と。その後、9月5日、10月5日になって吟味が寛大に見えたことに欺かれ、生きる期待を抱き、大いに喜んだ。これは私がこの身を惜しんだからではない。それには次のような理由があるからだ。昨年の暮、大晦の朝廷の決定は幕府の措置を認めて攘夷を猶予し、公武合体の上で攘夷をしようということだった。今春、3月5日、我が藩侯もそれに従って萩を出発した。私が唱えてきたこともこれで万策尽きたので、死を求める気持ちが強く沸き起こっていた。しかるに、6月の末、江戸に来て外国人の状態を見聞し、7月9日に下獄してからも天下の形勢を考察するうちに、日本国に未来のためになお私がしなければならないことがあると思い、ここで初めて生きることを激しく願うようになったのだ。私がもし死ななかったら、この心に沸き立つ気概はけっして沈みはしないだろう。だが、16日に見せられた供述書によって、三奉行が権力的詐術によって私を殺そうとしていることを知ってからは、生を願う気持ちはなくなった。これも私の平生の学問によって得た力によるものだろう。

漢詩の「継盛」とは明の楊継盛。貧しい生活のなか天文・地理・兵学などの学問に励み、音楽にも長じた。世宗の治世、兵部員外郎の時にアルタン汗の侵入にさいし、大将軍・仇鸞の弱腰を痛撃して罪を得た。のち刑部員外郎・兵部武選司に復活したがふたたび大学士・厳嵩の専権として十罪五奸を暴き、棄死(死罪にされ晒し者)にされる。天下の人はみな涕泣したという。子に10年経ったら開けて読むようにと2首の詩を授けた。「浩気還太虚、丹心照千古、生前未了時、事留與後人。」「天王自聖明、制度高千古、生平未報恩、留作忠魂補」とある。死後7年目にして、穆宗は直諫の功をもって太常少卿を追贈した。後の人はその品行を重んじて、『楊忠愍集』3巻を編した。

倉公とは、前漢の医者。淳干意のことである。前漢の文帝13年(前167)に、ある人が上書して、淳干意には肉刑に当たる罪があると訴えた。肉刑とは、いれずみ・鼻切り・足切り・去勢などの体を傷つける刑罰である。そのために淳干意は、駅伝で西の長安(陝西省西安市)に送られることになった。五人の娘は、父親にすがって悲しんだ。淳干意は嘆いて言った。「子供はいても、男子に恵まれず、差し迫ったときに役に立つ者がいない」すると、末娘のテイエイがこの言葉を痛ましく思い、父に従って西へ同行し、次のように上書した。
「わたくしの父が、斉の役人でありましたとき、国じゅうの人が清廉潔白を称えました。けれども、いま父は法に触れ刑に処せられようとしています。死者は生き返ることができず、肉刑に処せられた者は二度ともとの体に戻れません。みずから過ちを改め、新しく出直そうと思いましても、その道さえ閉ざされてしまいます。願わくは、わたくしが朝廷の召使 として身を捧げ、父の罪をあがないたいと思います。どうか父が行ないを改め、新生の道を歩めるようにしてくださいませ」
嘆願書が上聞に達すると、文帝劉恒はその心意を哀れに思って淳干意を許した。この年、肉刑の法をも廃止した。 テイエイの孝心は、後人にも感銘を与え、長く語り継がれた。現代になって劇化され、映画にもなった。 淳干意は釈放され、家にこもっていると、文帝劉恒から詔があった。

さてこの七章は、松蔭先生が三転して死をを決するにいたる経過を率直に述べている場面である。松蔭先生は、七月中旬、高杉晋作の「男子の死すべきところは」との問いに返信の手紙を書いている。

君は問う。男子の死ぬべき所はどこかと。
小生も昨年の冬投獄されて以来、そのことを考え続けて来たが、

今ついに、死の一字について発見するところがあった。

死は好むものでもはなく、また、憎むべきものでもでもない。
世の中には、生きながら心の死んでいる者がいるかと思えば、
その身は滅んでも魂の存する者もいる。
死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、
生きて大業をなす見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。
つまり小生の見るところでは、人間というものは、
生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ。

この死生観こそが高杉晋作の、その後の生き様を決定付けたといってよいだろう。

留魂録は、いよいよ有名な第八章へと進んでゆく。

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