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2009年9月

2009年9月27日 (日)

火の路

Photo2松本清張著「火の路」を読む。1970年代の作品だ。飛鳥、奈良時代の日本に古代ペルシア文明がかなり影響を与えたと見る、新進の考古学者・高須通子が、イランを訪ねる物語だった。奈良県飛鳥地方には酒船石(さかふねいし)はじめ猿石、益田岩船(ますだのいわふね)といった謎の石造物があり、清張 は飛鳥時代に渡来したペルシア人が遺したとの考えを高須通子を通して語る。

シルクロードを、商人として東奔西走したペルシャ人により古代ペルシャの広い信仰を集めたゾロアスター教(拝教)の聖なる火と、火が発する言葉が、日本の仏教とともにはいってきたのだ。人を陶酔させる薬草種ハオマ酒を飲んで、神との会話を可能にする「ハオマの密議」というゾロアスター教の儀式も、今も日本の多くの寺に残る密教の護摩焚きの火として残されている。また仏閣に多く見られる蓮の花が放射した模様は、ゾロアスター教の神太陽の放射図を模して仏教の国に入って来たもののようだ。遠い記憶を辿ると、ペルシャと飛鳥を結ぶ路があった。火と火を結ぶ路、その路を松本清張は「火の路」と名付けた。

2009年9月22日 (火)

軍艦武蔵

Photo Photo_2

手塚正己著「軍艦武蔵」を読む。十数年前に、吉村昭氏の「戦艦武蔵」を読んだが、それはあくまで武蔵そのものの生涯といった内容だった気がする。まあ、(それも夢中で読んでいたのだが)。その頃は、まさしく太平洋戦争オタクというほど、太平洋戦争物に没頭していて、たぶん300冊くらい購入して読んでたか。さて、久々の太平洋戦争関係書だが、あったぱれ手塚氏の、生存者への克明なインタビューにより、武蔵に乗り、また関わった人々の知る武蔵の生涯とそこにいた人々、特に若者の突き付けられた現実の有り様を見せつけてくれた。帝国海軍の夢と野望を賭けた不沈の巨艦「武蔵」。乾坤一擲「捷一号作戦」でのサマール島沖での壮絶な最後。上下巻合わせて1400ページ弱に及ぶ、大変な労作である。記録文学の面白さを存分に味わった。しかし、それにしてもやっとの思いで武蔵からの生き延びた青年たちの、その後のフィリンピンでの壮絶な死が痛ましくてならない。

2009年9月21日 (月)

鹿島神宮

東国三社と言われている、「鹿島神宮」「息栖神社」「香取神宮」を参拝。鹿島・香取は、平安の昔は、伊勢とならび3つだけ神宮と呼ばれた由緒正しい社である。官幣大社でもある。まずは、鹿島神宮へ。自宅から北関東自動車道で40分。水戸時代に、ほぼ毎週通過していたが、参拝は初めてだ。

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上の写真の大鳥居(ニの鳥居)から、まっすぐ、神門・拝殿・奥宮と道が伸びている。しかし、実は鹿島神宮には、別の場所に、一の鳥居が2つある。1つは、鹿島神宮の北東、鹿島灘に面した明石の浜という所だ(東の一の鳥居)。この鳥居から鹿島神宮本殿そして南西の香取神宮本殿へと一直線で結ばれているのだ(45度線)。2つ目は、鹿島神宮の南西、北浦に面する湖畔「大船津」というところにある。こちらが真の一の鳥居だ。港・船・航海に関係していることを意味するのであろう。「香取神宮」も一の鳥居が、鹿島に向かう利根川沿いに配されており、両神宮が一体といわれる由縁であろう。

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拝殿・本殿には、いたるところに、ご神紋「三つ巴」が配されている。そして、その奥には、巨大かつ高いご神木が美しい。実はこの本殿はめずらしく北面をしているのである。通常は、逆の南面が多いが。これは、蝦夷の地である東国を征圧する拠点としての「鹿島神宮」が、遠く東国に睨みを利かせているからだそうだ。ちなみに北面する神社が全くないわけではない。厳島神社・吉備津神社・吉野宮などが有名だ。

さて、ご祭神は、出雲国譲りの主役「武甕槌神」である。武神として大国主命に国譲りを迫り、その息子「建御名方神」を諏訪へ追いやった神である。そしてここにレイラインが存在する。鹿島神宮と諏訪神社のご神体守屋山が、ほぼ東西一直線で結ばれているのだ。守屋山山頂の位置(北緯35度58分04秒)ー 鹿島神宮の本殿の位置(北緯35度58分08秒)これは、春分・秋分の日に、太陽は、鹿島から守屋山へと通過することを意味する。勝者「武甕槌神」から日が昇り、敗者「建御名方神」へ日が沈んでゆくというわけだ。

しかし、鹿島神宮はこれだけではない。

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本殿から奥へ進むと奥宮がある。ここには、「武甕槌神荒御魂」が祭られているが、そこから南へすすむと「要石」なるものがある。わずかに地中から顔をだす凹型の石だ。要石が地震を起こす地底の大鯰(おおなまず)の 頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地 震がないと伝えられている。水戸の徳川光圀公が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘らせたが、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできなかったと伝えられる。そして「香取神宮」にも要石がある。その石は凸型で、こちらは、大鯰の尾を押さえているという。また、この2つの石はつながっているという話もある。おもしろい。

最後にもう一つ。中央構造線について書いておきたい。

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関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層をそう呼ぶ。そして、この線上には、有名な神社仏閣が位置しているのだ。南から、阿蘇神社・幣立宮・高千穂各社・日前神社・高野山・丹生神社・伊勢神宮・豊川稲荷・秋葉神社・諏訪大社・氷川神社・鹿島神宮・香取神宮・・・。そうそうたる霊場である。ゼロ磁場が存在するこの線上だからこそ、パワースポットといわれるのだろう。これら、社寺は地中のエネルギーを鎮める役割を背負っているかのようだ。鹿島神宮はその最東端に位置するのである。また、地図真ん中を見てもらい。諏訪大社は、この中央構造線だけでなく、フォッサマグナの西側線(糸魚川静岡線)とも接している。そして氷川神社は、フォッサマグナの東側線(柏崎千葉線)にも接しているのである。これこそまさに鎮座!!

息栖神社

二番目は、神栖町という所にある「息栖神社」。鹿島神宮の南に位置する。

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息栖(イキス)神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、住吉三神、天鳥船神を相殿の神として祭られている。鹿島・香取両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社だ。岐神は除厄招福の神であり、住吉三神は海上守護に、天鳥船神は交通守護の神としての御神徳が顕著で神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れさせられ御守護下さるものである。また岐神(くなどのかみ)は、道の別れ目のところで道を間違えないように教えてくれる神で、東国開拓の折り、出雲の国から 東国に武甕槌大神(たけみかずちのお おかみ)を先導した神様である。そして 天鳥船神は国譲りのさい、武甕槌大神 を出雲の国に先導した神様だ。神栖にありながら「息栖」。たぶんイキではなくオキではないか?住吉三神つながりで神功皇后=息長帯姫オキナガタラシヒメのオキではないか?

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ご神紋は、鹿島神宮と同じ「三つ巴」のようだ。そしてここ息栖神社は、香取神宮の真東に位置する。香取神宮ー北緯35°52′58″息栖神社ー北緯35°52′57″である。鹿島ー息栖は、残念ながら真南ではないが、香取ー息栖も鹿島ー息栖もその距離9kmで、三社は綺麗な二等辺三角形を描く。おもしろい。

香取神宮

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最後に「香取神宮」を参拝。ご祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)。鹿島神宮のご祭神 武甕槌神と経津主神は、同一神ともいわれている。また、『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。葦原中国平定で武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。しかし、フツというのは、スサノオの父の名前とも言われ、布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。そして、香取神宮が鎮座するこの山の名前は「亀甲山」。亀甲は、出雲の印。また、経津主神はスサノオを祀る「八坂神社 祇園祭」に繰り出す 荒久の山車飾りにも登場する。やはりどう考えても香取は出雲系???。

それはさておき拝殿=本殿は、息を飲む美しさであった。

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檜皮葺屋根、黒漆権現造りで周囲の朱色に対比して荘厳な雰囲気をかもしている。ご神紋は、「五七の桐」(下写真左)といわれているが、「五三の桐」紋(下写真右真ん中)も配されていた。 (*写真はクリックで拡大できます)

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こちらは、鹿島神宮と反対に本殿は、南面している。二社で一体ということか。ご神木の三本杉も誰しもが目を奪われるすばらしいものだった。旧参道を歩いてゆくと、そこには奥宮がある。経津主神の荒御魂を祀っている。これも鹿島神宮と同じ構造である。そして、その左奥に、要石が。

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確かに、凸型だった。東国三社の神域を堪能した一日であった。

2009年9月13日 (日)

枚聞神社

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宮崎から約230km。3時間かけて薩摩富士の異名をもつ「開聞岳」を御神体とする、薩摩国一之宮「枚聞神社」に参拝。上の写真は、池田湖の畔から撮った開聞岳。さすがに美しい。ずっと見ていても飽きない。

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「枚聞神社」の鳥居の奥に開聞岳が聳える。ご祭神は「大日孁貴命おおひるめむちのみこと」すなわちアマテラス。ご神紋は「四つ割菊」だが、鳥居も拝殿・本殿にも十六菊が配されている。どこかにないか?あった。拝殿手前の「神馬像」の体に見事に、ご神紋が。

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敷地はそれほど広くないが、美しい神社であった。

しかし、拝殿・本殿にあった(写真下)、尾長右三つ巴と流れ巴の変形のような神紋が気になった。

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ここから、知覧町へ向かうが、途中、海岸沿いからの開聞岳を写真に。やっぱりいい。

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ミュージアム知覧

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宮崎勤務の間に行っとかないといけない「ミュージアム知覧」へ出かけた。知覧町へ入ると、ミュージアムまで道の両脇に灯篭が並んでいる。沖縄戦の特攻基地となり多くの若者(1035名)がここから飛び立っていったのだ。館内には、全国各地の遺族や関係者から寄せられた特攻隊員たちの遺影や遺品、記録等の資料が展示され、厳粛な中に死を賭して祖国危難に立ち向かった隊員たちの姿を残している。特に数多くの遺書は、心を抉られる。そして特攻直前に写された、穢れなき笑顔の写真に涙しない者はいないだろう。

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2009年9月10日 (木)

舞い降りた天皇(すめらぎ)

Photo Photo_2  加治将一著 小説「舞い降りた天皇(すめらぎ)」を読む。

倭国は卑弥呼の時代から、呪力で国を治めてきた。女王・卑弥呼亡き後、祭祀を握った最高司祭者が初代天皇「X」だ。「X」とは一体何者なのか、どこから来たのか―歴史小説家・望月真司の古代史解読が進む。『魏志倭人伝』が距離表示を使い分ける理由、「八咫の鏡」を思わせる銅鏡が出土した北九州の遺跡、天皇の“指名権”を持ち、神武とゆかりの深い宇佐神宮。朝廷をも牛耳った渡来人・秦氏。そして京都と奈良に分祀された皇祖神の源流…。点と点は、朝鮮半島と北九州の間に浮かぶ二つの「島」で結ばれた!日本はいかにして誕生したのか。天皇「X」はどこから来たのか。いま、すべての秘密が明らかになる。 

共感する部分とちょっとそれはという部分が交錯するが、非常におもしろい論点を含んでおり、一気に読むことができた。(出雲・スサノオの扱いが不満ではあるが)

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