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2012年6月23日 (土)

雲奔る

Photo藤澤周平著「雲奔る」を読む。
安井息軒の三計塾きっての俊才、米沢藩士・雲井龍雄。幕末の動乱期に、討薩ひとすじに生きた二十七歳の短く激しい悲劇の志士の生涯を描く力作長篇!である。
雲井龍雄(小島龍三郎)は米沢藩の下級藩士である。雲井龍雄は暴動を起こした郷民を沈静化するために屋代郷警備にあたっていた。それは、以前から米沢藩の財政は逼迫していたことから端を発した暴動であった。この頃、龍雄は江戸に行きたいと思っていた。自分の学問を深めるためである。だが、可能性はほとんどなかった。だが、そんな龍雄に江戸詰めの命令が出た。龍雄は三計塾の安井息軒のもとに通うことになった。三計塾で龍雄は短期間に頭角を現わした。安井息軒の講義は龍雄を刺激し、同時に時勢に対する洞察力をはぐくんでいった。息軒の三計塾を巣立っていった者の中には、長州の桂小五郎、広沢兵助、品川弥二郎らがいる。龍雄は三計塾で塾頭を務めるまでになっていた。だが、龍雄は任期が終わり米沢に戻った。
時代は激動を迎えていた。龍雄は江戸での生活の間、特に三計塾で諸藩の探索方の人間を何人も見てきた。時代の流れを読み誤らないために、藩に必要なのは探索方である。そう信じて龍雄は上書、歎願を繰り返した。それが、世子の目にとまり、龍雄は探索方に就任した。
京に上洛した龍雄は三計塾の人脈を出来る限り活用することにした。龍雄は遠山翠という変名を使って本格的に活動に入っていった。ここに幕末の志士雲井龍雄が誕生したのだった。

明治維新最大の鍵は、反目しあっていた薩長がなぜ同盟するに至ったかにある。通説として坂本竜馬が仲介したことになっているが、近年はその背景にグラバーら兵器導入を企図する外国勢力の暗躍があったことが指摘されるようになってきた。龍雄はその中にあって、吉田松陰以来の長州の良心に薩摩の不義を訴え、薩長離間を図ろうとした。長州軍先鋒を務める三計塾同門の親友時山直八宛てに送った、薩長西軍に抗する奥羽越列藩同盟の大義表明ともいえる龍雄の「討薩檄」は古今檄文中の白眉とされる。

「薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。・・・・・是に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此義挙を唱う。」

 しかし龍雄の意図に反して米沢藩は同盟を離脱、その後まもなく他の奥羽越列藩もことごとく降伏、奥羽戦争は終結することになる。龍雄は戦争責任者としてしばらく米沢で謹慎の身となるが、その人望と影響力の大きさから新政府の集議院寄宿生(議員)に登用される。しかし志に反する場に留まることを潔しとせず憤然辞職。その後新政府に不満を持ちかつ生活にも困窮するかつての同志、旧盟の者のための「帰順部局点検所」を設置。その下には八千人が集まったという。しかしこのことが反政府挙兵の企みと解されるところとなり、米沢へ護送蟄居。三ヵ月後には逮捕となって東京への檻送となる。そして明治三年十二月二十八日、明治政府によって斬首、首は小塚原に晒された。二十七歳だった。

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