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長州藩

2013年8月12日 (月)

東行庵

防府からの帰り道美祢西ICで降りて吉田町にある「東行庵」に寄らせてもらいました。わが町下関市長府にある功山寺の末寺です。そして、ここには、高杉晋作のお墓、顕彰碑、奇兵隊のお墓があるのです。

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東行とは、高杉晋作の号です。晋作の死後、尼となって(谷梅処(たにばいしょ)と改名)、その墓を守り菩提(ぼだい)をとむらうようになりました。はじめは山形有朋(やまがたありとも)が住んでいた吉田の無隣庵(むりんあん)を僧堂にあてていましたが、明治17年に山形有朋・伊藤博文・井上馨(かおる)らの寄付によって、無隣庵の隣接地に、現在の東行庵が建立されました。
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かの顕彰碑(文はクリックして2007/4/25当ブログを御覧ください)がここにあります。
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薄くなって近づいてもよく見えませんでした。だからお土産で買いました。↓
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書斎に貼りました。
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お墓にて、「こんにち日本があるのは貴方のお力です。」感謝を込めてお祈りさせて頂きました。<ちなみに曹洞宗のお寺です>
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手ぬぐい・湯のみもお土産で買ってしまいました。

2009年11月 9日 (月)

龍馬暗殺者伝

Photo 加野厚志著「龍馬暗殺者伝」を読む。

風雲急を告げる幕末の長州藩。周防灘の漁師のせがれ直人は、父と巨大なホホジロ鮫を狩り、倒幕の吉兆として士分を許される。久坂玄瑞と交わり、尊皇攘夷の流れに加わっていく。高杉晋作を追いつめ、そして坂本龍馬、大村益次郎を斬殺。幕末最強の刺客、長州の切り札となった彼は、回天の動乱を駈けぬける!新政府で栄達した者たちが歴史の闇に葬った神代直人。その苛烈な生涯に肉迫した異色長篇。

幕末、長州・薩摩・土佐に各々、人斬りと異名をとる人物がいる。長州は、この小説の主人公である「神代直人(こうじろ)」、薩摩の後の桐野利秋こと中村半次郎、そして土佐には、岡田以蔵がいる。主人公 神代直人だが、大村益次郎を襲撃したというのは事実である。そこから、龍馬の犯人も彼であるという設定で小説は組み立てられる。私は、薩摩陰謀説の立場なのでそれはおいといて、小説としては非常に読み応えのある作品であった。久坂玄瑞に対する思い、高杉晋作へ対する嫉妬、山形狂介への侮蔑を交え、テロリストとして一途に駆け抜ける神代、そして味付けとして不思議な恋心も添える。長州人としては実に面白い小説であった。

2009年10月12日 (月)

龍馬を殺したのは誰か

Photo 幕末最大のミステリというべき龍馬殺害事件に焦点を絞り、フィクションを排して、土佐藩関係者、京都見廻組、新選組隊士の証言などを徹底検証し、さまざまな角度から事件の真相に迫る歴史推理ドキュメントです。

2007年4月25日 (水)

高杉晋作顕彰碑

1  高杉晋作顕彰碑 碑文

動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。君は諱を春風、字を暢夫、通称を晋作、後姓名を代えて谷潜蔵と曰う。東行はその号なり。系は武田小左衛門春時に出づ。春時は天文中備後、高杉城主たり。因って氏たり。子孫は世に毛利氏に仕う。考の諱は春樹、妣は大西氏。天保十年八月二十日を以って長門萩に生る。幼にしててきとう大志あり。眼光は炯炯として才識人に絶す。初め藩学明倫館に入り、年十九にして吉田松陰に師事、松陰は深くこれを偉として久坂実甫とならび称す。次いで東遊して昌平學に入り、また佐久間象山を信濃に、横井小楠を越前に訪い、学識ますます進む。文久元年、藩公朝幕の間を周旋す。時に君は世子の近侍たり。周旋のことをおもうに藩国に利あらずと。すなわち将になす有らんとす。
 
二年、公、君を上海に遊び海外の事情を探らしめんとす。居ること数ヶ月にして還る。則ち世子は勅を奉じて江戸にあり、周旋すこぶる力(つと)む。君当路にその不可なるを以って説くも聴かれず。君憂憤し、一日切に世子を諌め、直に藩邸を脱す。すでにして勅使三条中納言、姉小路少将江戸に至り、幕府に攘夷の勅 を奉ぜしむ。幕議依違して決せず。君同志と謀り、まさに外人を襲殺して以って事端を啓(ひら)かんとす。世子諭してこれを止むるも君等遂に御殿山外館を火く。世子君を京師に召す。故あり髪をきって東行と号す。
 
三年春、車駕賀茂社に詣す。将軍家茂列候を率いてこ従す。既にして将軍まさににわかに東帰せんとす。君謂う「将軍一たび挙趾すればすなわち大事去らん」と。すなわち同志と鷹司関白に謁し、その不可なるを陳ぶ。朝議これを納れる。未だいくばくもなく国に還りへい居して出でず。六月、藩公勅を奉じ外艦を馬関において撃つや、君を起こして防御の事を任す。君、士民の勇壮なる者を募り奇兵隊を編む。八月、朝議俄に変じ、三条中納言等の官をうばい、藩公父子の入京を停す。士民憤慨す。遊撃軍総督来島又兵衛、将に兵を率いて闕下にいたらんとす。君、公命をふくみてこれを諭せども聴かず。君深くこれをなげき、即日亡命し入京す、藩その罪を論じて獄に下す。
 
元治元年八月英仏米蘭の四国、艦隊をつらね馬関を侵す。公また君を起て政務に参ぜしむ。我軍利あらず。すなわち君を以って講和の使となし、止戦講和の約をむすぶ。余等もまた参ず。これより先、士民冤を京師に訴えて皆省みず。 ついに禁門の変有り。幕府問罪の師を興し我が国境にせまる。藩士の俗論を唱うるもの争いて起こり、公を萩に擁し、政柄を掌握して、専ら恭順を主とす。正党は皆罪を蒙る。君慨然として国論を回復するの志あり。機を見て遁れ山口に潜入するも捕吏追躡す。すなわち航海して筑前に走る。奇兵の諸隊、しばしば上書して事を論じて納れられず。俗党ついに三老臣四参謀を斬って幕府に謝罪す。君は事の急なるを聞き、また長府に帰り、まさに諸隊を率い俗党を討たんとす。隊士等以って時機尚早となし未だことごとく応ぜず。君余等と謀り、わずか二隊の兵を以って発し、急に馬関伊崎の官廨を囲み姦吏を逐う。其の翌、諸隊また陣を伊佐に進む。俗党驚駭し、また正士七人を殺す。君大いに怒り、兵を進め伊崎官廨を襲てこれに拠り、討姦の檄を国内に伝う。実に慶応元年正月二日なり。ここにおいて俗党、兵を発し諸隊を撃つ。諸隊絵堂大田にむかえ戦う。皆捷つ。君往きて之に会い、赤村の敵を夜襲し、これを破る。転じて山口に入り、三道に兵を分ちて萩に向かう。藩士の俗党にくみせざるもの、上書して当路をしりぞけ、以って国難を靖んぜんことを請う。公これを納れ、諸隊に告諭す 。諸隊命を聴き、藩論始めて一に帰す。君は諸隊を部署して、以って東兵に備え、しこうしてまさに余を伴い欧州に遊び、その形勢を察せんとするも、事を以って果さず。五月、土佐の坂本龍馬、馬関に来り。桂小五郎に見え、薩長連合の事を説く。君、余等とその議に賛し、かつ曰く、「今、東軍まさに大挙来攻せんとす。よろしく、峩艦利器を外国に購い、以ってこれに備うべし。しかれども其の事、薩藩の名を借るにあらざればすなわち能わざるなり」と。余、井上聞多と長崎にいたり、薩の老臣小松帯刀とはかり、銃艦を購入す。桂、また命を奉じて京に入り、西郷吉之助等と協議し、薩長連合すなわち成る。二年春、君、余と長崎に赴き、尋いでまさに欧州へ航せんとす。未だ発せざるに、たまたま幕府の使、小笠原壹岐守、日を刻して公父子を広島に召す。君、これを聞いておもえらく「戦期すでに近し」と。急ぎ軍艦一隻を購いて帰る。丙寅艦これなり。六月、東軍、大島郡を襲う。君、丙寅艦に乗り、夜、敵艦へい列の中に突入し放砲して去る。敵軍震駭す。我が兵また海を渡り、陸上の敵を撃ち、これを走らしむ。君、ついで軍を豊前に進め、門司大里を取る。敵、小倉城を火き、退いて 香春に入り、ついに降を請う。しこうして芸石の東軍もまたすでに我の破るところとなる。四境の外、また敵騎を見ざるなり。ここにおいて幕威地に墜き、王政復古の業まさに緒につかんとす。
 
三年春、君たまたま疾を獲、四月十四日ついに起たず。春秋二十有九。けだし藩の士民、悼惜せざるなし。吉田村清水山に葬る、配は井上氏、一男あり、名は東一、その祀を承く。明治二十四年、朝廷その功を追褒し、正四位を贈る。嗚呼、君没するの翌年、聖上登極し、乾坤一新す。しこうして、君、目に中興の盛業を観るをえず。身に昭代のはいたくにうるおうあたわず。悲しいかな。今、ここに某月、君の故舊相謀り、墓側に石を建て、以って之を朽せず。余に属して文をなさしむ。誼(ぎ)、辞すべからず。すなわちその行実を書す。概略かくの如し。
 
明治四十二年九月 正二位大勳位公爵 伊藤博文

2007年4月14日 (土)

晋作 命日

昨年も当然書きましたが、今日は、高杉晋作(東行)の命日です。伊藤博文が揮毫した「高杉晋作顕彰碑」の碑文の話は以前にも書きました。あの「動けば雷電の・・・」くだりに話です。今日は、せっかくなので、全文をHomePageに掲載し晋作の冥福をお祈りすると共にその栄誉を長州人として讃えようと思います。さて元治3年、野山獄にて作詩したものに以下の七言絶句があります。

偸生決死任時宜
不患世人論是非
嘗在先師寄我語
回頭追思涙空垂

生を偸(ぬす)むも死を決するも時宜に任す
世人の是非を論ずるをうれえず
かつて先師のわれに寄するの語あり
頭をめぐらして追思すれば涙むなしく垂る

命を惜しむも死を決するも時にまかせ、世の人が是非を論ずることなど気にすべきではない。かつて先師(松陰先生)はそう諭(さと)された。思い巡らせれば今はただ涙が零れ落ちてくる。

これは、かつて高杉が松陰に対して「男子の死ぬべきところはどこか」という問いを発したことがあったのに対して、松陰先生が答えた言葉を指している。
「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書(明の学者李卓吾の書)の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪(にく)むべきに非ず、道盡き心安んずる、便(すなは)ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱(はじ)を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸(ぬす)むも妨げず。死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措(お)きて唯だ言うべきを言ふのみ」

死ぬことで不朽の意義を見いだせるのならばいつ死んでもよいし、なお生き続けることによって大業を行う見込みがあるならば、生き永らえてその事を成すべきである。つまり人間というものは、生死を度外視して何かを成し遂げる心構えこそが大切なのだと言うのである。この死生観が、松陰先生その人の生涯を語るものとなり、危険を避けて逃避行や亡命を繰り返しながら、不朽の死と見定めたとき果敢に挙兵(功山寺決起)し、長州藩の討幕路線を確定させた晋作の生きざまに大きく影響したのである。

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2006年9月20日 (水)

安倍晋三

安倍晋三君が、臨時国会が召集される26日の衆参両院本会議で、第90代、57人目の首相に指名され、同日中に新内閣を発足させる見通しだ。山口県出身でなんと8人目の総理大臣である。東京都出身が同じ8人であるが、他の県に比べると圧倒的である。さすが長州藩である。あの鹿児島県ですらたった3人で、岩手県の4人よりも少ない。過去の7人は伊藤博文、山形有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作である。昭和40年代、まだ小学生だったころ故郷 山口県は、周りの県に比べて妙に道路がきれいだったなと記憶している。新幹線の駅もなにもない県の割には5つもある。さすが、宰相の県は違うなと思っていた。だからどうということはないのだが、お国自慢ではある。

2006年5月14日 (日)

高杉晋作 愛用グラス

Dscf0851 写真は今日、萩工房から取り寄せた「高杉晋作が愛用した」と言われる萩ガラスのレプリカである。桐箱の「長州藩」の文字がまたGood!!である。このグラスは、高さ8センチ、口径4.8センチと小さい。東行記念館にこのグラスで酒を飲む晋作の掛け軸があるらしい。ちょっとお宝になりそうだ。折角なので、長州関連書籍の上に置いてみた。最近は、長州といえば、長州小力と安部晋三だが、やはり松蔭先生と高杉晋作を忘れていはいけない。とりあえず自分だけ納得の1日であった。

2006年5月 1日 (月)

山田顕義

Img249 にっぽんのナポレオンと言われた男がいる。日露戦争や太平洋戦争の時ではない。幕末から明治にかけ函館戦争・西南戦争などで活躍した「長州人:山田市之充」その人である。かの高杉晋作が後継者と任じたほどの名将である。また、小男であるところが、妙に近親感を覚える。
晩年は、法典整備に尽力し、皇典講究所(現国学院大学)、日本法律学校(現日本大学)の設立にも関わった。
秋山香乃「五稜郭を落とした男」という本がある。「用兵の妙、神の如し」と詠われた山田顕義の若き日々の戦いを、吉田松陰、高杉晋作や久坂玄瑞など、維新回転の原動力となった多彩な登場人物とともに描いた名作である。長州人には、とにかくたまらない作品です。司馬遼太郎先生は、なんだかんだ言っても「長州嫌いの薩摩好き」ですから、長州人の描き方がいまひとつだが(乃木大将は最大の犠牲者)、秋山さんは実に最高です。幕末物好きは是非読んでもらいたいです。

2006年4月14日 (金)

高杉晋作 命日

本日は、高杉晋作の命日です。Photo 今の日本があるのは、晋作のおかげです。

感謝感謝!!

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2006年3月18日 (土)

松陰先生のことば

山口県萩市明倫小学校では、児童らにより毎朝「松陰先生のことば」が朗誦されている。

1年生(一学期)
今日よりぞ 幼心を打ち捨てて 人と成りにし 道を深めし
(今までは、親にすがり甘えていたが、 小学生となった今日からは、自分のことは自分でしよう)
2年生(一学期)
万巻の書を読むに あらざるよりは いずくんぞ 千秋の人たるをえん
(多くの本を読み勉強しなければ、どうして名を残すような立派な人になることができるでしょう、しっかり本を読みましょう)
3年生(一学期)
凡そ生まれて人たらば 宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし
(人間として生まれて来た以上、動物と違うところがなくてはならない。・・・人間は道徳を知り行うことができる。道徳が行わなければ人間とは言えない。)

という風に6学年×3学期分=18 の言葉が朗誦されている。さすが明倫館の流れを汲む小学校である。一度、その様子を見てみたいものである。

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