榎原神社(よわら)
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朝6時に、温泉でくつろぎ、久しぶりのごはん・みそしるの朝飯を頂き、7時半にホテルを後にした。向かうは、川内市にある旧国幣中社にして現・別表神社「新田神社」。薩摩の国一之宮だ。先月参拝した、枚聞神社と薩摩の国には一之宮が二つある。
ご祭神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊。神紋は十六八重菊。しかし、以前は八幡宮であったらしい。新田神社は、神亀山という小さな山の上に鎮座している。そして、神社の奥には「可愛山稜(エノ)」という、ニニギノミコトの御陵がある。社殿までは、思ったよりも多くの階段を登っていかなくてはいけない。しんど・・・
枚聞神社と同様の拝殿の前に勅使殿のある鹿児島地方独特の建築様式で、社殿全体は、左右の末社が回廊で結ばれており、中央は、勅使殿ー舞殿ー拝殿ー本殿と並んでいるのだ。さながら「山」の形となっているようだ。左は、武内神社、右は四所宮。四所宮には、彦火火出見命 玉依姫命 彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊 豐玉姫命が祀られている。勅使殿の彫刻は見事なものであった。
さて上の写真が「可愛山陵」である。神社の社務所前を通り、50mほど裏手を歩くと到着する。そばには樟の大樹が聳えている。勿論、宮内庁管理です。
これで、九州の一之宮はあらかた参拝することができた。<残りは、肥前の與止日女(よどひめ)神社、そして行く機会のないであろう壱岐対馬の2神社>
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宮崎への帰路、途中に都城に鎮座する別表神社「神柱宮」に立ち寄り参拝。大鳥居は、25mの高さを持ち、現在第6位の高さを誇る。ご祭神は、伊勢神宮内宮・外宮と同じく天照皇大神と豊受姫大神であり、島津荘(しまずのしょう)の開拓のために大宰府より移住した平季基が、万寿3年(1026年)、天照大神の神託を受けて伊勢神宮より勧請したのに始まると伝えられる。神紋は、「五七の桐」のようだ。いたるところに配されていた。
*雑学~大鳥居高さランキング
1、熊野本宮大社(大斎原) 33.9M
2、大神神社 32.2M
3、弥彦神社 30.16M
4、最上稲荷 27.5M
5、鹿嶋神社(兵庫;高砂) 26M
6、靖国神社・神柱宮 25M
8、古峯神社 24.622M
9、平安神宮・豊国神社 24.2M
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最終日は、17時のフライトの為、14時に宿泊のホテルにて待ち合わせ。午前の時間を使って、上海郊外で一番近い水郷の町「朱家角」へ出かけた。上海中心部のホテルから、1時間あまり。街は9つの長い町並みが河沿いに伸びて千棟以上の明、清時代の建物が並び、て古い石橋が36個ある。
ここでは、ゴンドラならぬ小船で遊覧を楽しんだ。(ここは中国のベニスといわれている)
1999年、揚州出身の江沢民国家主席がこの地を訪れた折り朱家角の街並みにいたく感動され北京政府にそのまま残すよう指示したため、そのまま保存され生活が営まれているらしいです。細い路地には、たくさんの地元の土産屋さんが並んでいます。
明・清代の街並みと現在に受け継がれる古鎮での人々の生活を垣間見る事ができた。お土産もここでいくつかGETし、昼に上海中心地<淮海中路>・・銀座のような所 へ戻り、昼食。
蘇州ラーメンを食べようと、「滄浪亭ツァンランテイ」という人気の麺専門店へ。
メニューは、中国式簡略漢字だけで読めねー。しかたなく二人ともガイドブックに掲載の小海老を蟹味噌ベースで炒めたもの(蝦蟹面)をトッピングするラーメンを注文。いやーあっさりでうまい。こちらも満足 満足。
その後、タクシーでホテルへ。時間まで、上海のミスタードーナツで時間つぶし。日本にはない種類を一つずつ食べながら最後の時間を過ごした。
あっというまのスケジュール満載の4日間だったが、楽しい旅行であった。
自分の土産は、28元=420円の本のしおり(金属製)、かみさんは、Duty Free で、フェラゴガモの財布と香水=48000円。あれっ 100倍以上・・・・・・
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3日目は、朝から「蘇州」へ向かう。高速道路を利用して1時間半あまりだ。この日は、もう一組の二人連れと一緒。(一人は、コブクロ黒田のような大きなおっさん、歳は55くらいか、連れは何故か上海の中国人の女の子。どういう関係や!!)まあ、それは無視して、観光にいそしむ。まずは「留園」。
中国四大名園の一つだ。ちなみにあとの3つは、同じ蘇州の「拙政園」・北京の頤和園・河北省承徳市の避暑山荘。
それから、臨済宗の仏教寺院、唐代の詩人張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の石碑で名高い「寒山寺」へ。
度重なる火災に遭い、現在の建物は清代に再建されたものらしい。
3つ目は、「虎丘」へ。呉の夫差が、父 闔廬(コウリョウ)の為に建てた陵墓である。夫差とは、「臥薪嘗胆」の臥薪で有名、越王 勾践と戦い最後は敗れた呉王である。傾城の美女<西施>が越の策で夫差に贈られたことも有名だ。闔廬が剣が大好きだったことで、3千本の剣が埋められたとも言われている。
そして、丘の上には、中国のピサの斜塔とも言われている虎丘塔が聳えている。
確かに少し右へ傾いていました。
この日も、お腹いっぱい中華料理を食べ、夜にはマッサージへ出かけた。ガイドブックに載っており、ガイドの石さんもお勧めの、南京東路にある『桃源郷』という店へ。私は足ツボ、ママは、全身オイルマッサージを頼んだ。結局、私は、肩・首を追加、かみさんも頭皮マッサージを追加した。しかし、かなり気持ちよく、疲れがとれました。
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夕食は、黄浦江沿い浦東側のレストランで、海鮮料理をいただく。
兎に角、ずっと二人での中華料理なので量が半端じゃない。青島ビールを飲みながら、お腹を押さえながら、チャーハン、青梗菜などをほうばる。まだ2日目だが、明らかな旅行後は1kgは太ってしまうだろう。旅行の間は、歩いて調整するしかない。さて、ナイトクルーズは、20時半のスタート。JTBの貸切なので、100人乗りほどの船。しかし、折からの台風の影響なのか、お客は、我々2人と北京から上海へ来た、岡山からのおばちゃま3人衆の5名。非常に贅沢なナイトクルーズとなった。(乗組員の方が、断然人数が多いのだから)
船からの両岸の夜景は、すばらしいの一言に付きました。
↑ 浦東側の夜景(東方明珠タワーをはじめ陸家嘴金融・貿易開発区の高層ビル群)
↑ 外灘側の夜景(左:上海浦東開発銀行・右:上海海関)
2日目も充実の一日でした。
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2日目は、上海市内観光。まずは、租界時代の上海の中心地「外灘」(ワイタン)へ。1907年に造られたという外白渡橋から写真を撮る。「外灘」界隈は残念ながら、道路工事に真っ最中で、散策は叶わなかった。ここは、近代的な上海の風景と違い、欧米様式の古い建物が立ち並んでおり、不思議な感覚にとらわれます。
次に向かったのは、名園「豫園(ヨエン)」。ここは、江南式庭園で、約400年前、明の時代に18年かけて造られたものだ。豫園の「豫」は「愉」に通じ、「楽しい園」という意味らしい。また豫園周辺の豫園商城は、多くの商店が軒を並べる地域であり、中国各地からやってきた観光客でごった返していた。(下の写真は豫園商城)
豫園は贅を尽くした建物、家具もさることながら、太湖石という石灰岩が水や波の浸食で穴が空いた珍しい石や龍で形作られた壁が珍しく目を見張った。
途中で、お茶を楽しむ。もちろん、ツアーならではの、提携店での休憩だ。鉄観音、ジャスミン、カテキン茶などを戴く。お土産にお茶を買ったついでに、紫砂で作られた「きゅうす」を購入。これが、15000円した。これをしようするとお茶は、3日間は、そのままの状態で変質せず、保温性も高い優れものらしい。まんまと買わされた。でも本当にいいものらしい。豫園を見学した後は、近くの上海老街を散策。ここは、上海の浅草のような場所。
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夫婦でのハネムーン以来の海外旅行に。台風18号を横目に、成田から上海へ3時間。やはり意外と近いものだ。台風の影響もあり、現地添乗員(パルピン出身の石さん)一人に、我々2人という贅沢な旅行の始まりだ。上海 浦東(プードン)空港から街までは、リニアモーターカーで7分半。時速は、最高431kmまで出ていた。さすがに速い!!
↑写真は、400km超えで撮影。そこからまず、東方明珠塔(ドンファンミンジューター)へ。テレビ塔としては世界第三位、アジアでは第一位の高さを誇る、468mのテレビ塔だ。球体部分が展望台となっており、どの展望台からも周囲360度がぐるりと見渡せる。
2000万都市「上海」を一望。大いにその眺めを堪能した。
1日目の観光は、とりあえずここだけで、早めにホテルで一休み。ホテルは、「ルロイヤル・メリディアン上海」。部屋はグレードアップし、スイートにしたので広くて快適だった。
ホテルは、南京路歩行街という場所(渋谷のような街)の近くにあり、夕食まで時間があったので散策し「一茶一坐」というスイーツ&カフェで喉を潤した。かみさんの注文した「タピオカ入りミルクティー」はうまかった。
夕食は、当然の上海料理。そして、この日の最後のお楽しみは、上海雑技団鑑賞。
伝統的な衣装と雑技のレベルが高いことで有名な「白玉蘭劇場」という所。この日は、一度のミスもなく演目をこなしてくれたのには、感激した。写真が撮れなかったのは残念だ。空中から吊られた紐に絡まって男女二人が踊る演技とバイクを使ったアクロバットには驚嘆させられた。ブラボー!!白玉蘭。 ちなみに白玉蘭とは、ハクモクレンで上海の市の花です。
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東国三社と言われている、「鹿島神宮」「息栖神社」「香取神宮」を参拝。鹿島・香取は、平安の昔は、伊勢とならび3つだけ神宮と呼ばれた由緒正しい社である。官幣大社でもある。まずは、鹿島神宮へ。自宅から北関東自動車道で40分。水戸時代に、ほぼ毎週通過していたが、参拝は初めてだ。
上の写真の大鳥居(ニの鳥居)から、まっすぐ、神門・拝殿・奥宮と道が伸びている。しかし、実は鹿島神宮には、別の場所に、一の鳥居が2つある。1つは、鹿島神宮の北東、鹿島灘に面した明石の浜という所だ(東の一の鳥居)。この鳥居から鹿島神宮本殿そして南西の香取神宮本殿へと一直線で結ばれているのだ(45度線)。2つ目は、鹿島神宮の南西、北浦に面する湖畔「大船津」というところにある。こちらが真の一の鳥居だ。港・船・航海に関係していることを意味するのであろう。「香取神宮」も一の鳥居が、鹿島に向かう利根川沿いに配されており、両神宮が一体といわれる由縁であろう。
拝殿・本殿には、いたるところに、ご神紋「三つ巴」が配されている。そして、その奥には、巨大かつ高いご神木が美しい。実はこの本殿はめずらしく北面をしているのである。通常は、逆の南面が多いが。これは、蝦夷の地である東国を征圧する拠点としての「鹿島神宮」が、遠く東国に睨みを利かせているからだそうだ。ちなみに北面する神社が全くないわけではない。厳島神社・吉備津神社・吉野宮などが有名だ。
さて、ご祭神は、出雲国譲りの主役「武甕槌神」である。武神として大国主命に国譲りを迫り、その息子「建御名方神」を諏訪へ追いやった神である。そしてここにレイラインが存在する。鹿島神宮と諏訪神社のご神体守屋山が、ほぼ東西一直線で結ばれているのだ。守屋山山頂の位置(北緯35度58分04秒)ー 鹿島神宮の本殿の位置(北緯35度58分08秒)。これは、春分・秋分の日に、太陽は、鹿島から守屋山へと通過することを意味する。勝者「武甕槌神」から日が昇り、敗者「建御名方神」へ日が沈んでゆくというわけだ。
しかし、鹿島神宮はこれだけではない。
本殿から奥へ進むと奥宮がある。ここには、「武甕槌神荒御魂」が祭られているが、そこから南へすすむと「要石」なるものがある。わずかに地中から顔をだす凹型の石だ。要石が地震を起こす地底の大鯰(おおなまず)の 頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地 震がないと伝えられている。水戸の徳川光圀公が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘らせたが、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできなかったと伝えられる。そして「香取神宮」にも要石がある。その石は凸型で、こちらは、大鯰の尾を押さえているという。また、この2つの石はつながっているという話もある。おもしろい。
最後にもう一つ。中央構造線について書いておきたい。
関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層をそう呼ぶ。そして、この線上には、有名な神社仏閣が位置しているのだ。南から、阿蘇神社・幣立宮・高千穂各社・日前神社・高野山・丹生神社・伊勢神宮・豊川稲荷・秋葉神社・諏訪大社・氷川神社・鹿島神宮・香取神宮・・・。そうそうたる霊場である。ゼロ磁場が存在するこの線上だからこそ、パワースポットといわれるのだろう。これら、社寺は地中のエネルギーを鎮める役割を背負っているかのようだ。鹿島神宮はその最東端に位置するのである。また、地図真ん中を見てもらい。諏訪大社は、この中央構造線だけでなく、フォッサマグナとも接している。これこそまさに鎮座!!
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二番目は、神栖町という所にある「息栖神社」。鹿島神宮の南に位置する。
息栖(イキス)神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、住吉三神、天鳥船神を相殿の神として祭られている。鹿島・香取両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社だ。岐神は除厄招福の神であり、住吉三神は海上守護に、天鳥船神は交通守護の神としての御神徳が顕著で神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れさせられ御守護下さるものである。また岐神(くなどのかみ)は、道の別れ目のところで道を間違えないように教えてくれる神で、東国開拓の折り、出雲の国から 東国に武甕槌大神(たけみかずちのお おかみ)を先導した神様である。そして 天鳥船神は国譲りのさい、武甕槌大神 を出雲の国に先導した神様だ。神栖にありながら「息栖」。たぶんイキではなくオキではないか?住吉三神つながりで神功皇后=息長帯姫オキナガタラシヒメのオキではないか?
ご神紋は、鹿島神宮と同じ「三つ巴」のようだ。そしてここ息栖神社は、香取神宮の真東に位置する。香取神宮ー北緯35°52′58″息栖神社ー北緯35°52′57″である。鹿島ー息栖は、残念ながら真南ではないが、香取ー息栖も鹿島ー息栖もその距離9kmで、三社は綺麗な二等辺三角形を描く。おもしろい。
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最後に「香取神宮」を参拝。ご祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)。鹿島神宮のご祭神 武甕槌神と経津主神は、同一神ともいわれている。また、『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。葦原中国平定で武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。しかし、フツというのは、スサノオの父の名前とも言われ、布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。そして、香取神宮が鎮座するこの山の名前は「亀甲山」。亀甲は、出雲の印。また、経津主神はスサノオを祀る「八坂神社 祇園祭」に繰り出す 荒久の山車飾りにも登場する。やはりどう考えても香取は出雲系???。
それはさておき拝殿=本殿は、息を飲む美しさであった。
檜皮葺屋根、黒漆権現造りで周囲の朱色に対比して荘厳な雰囲気をかもしている。ご神紋は、「五七の桐」(下写真左)といわれているが、「五三の桐」紋(下写真右真ん中)も配されていた。 (*写真はクリックで拡大できます)
こちらは、鹿島神宮と反対に本殿は、南面している。二社で一体ということか。ご神木の三本杉も誰しもが目を奪われるすばらしいものだった。旧参道を歩いてゆくと、そこには奥宮がある。経津主神の荒御魂を祀っている。これも鹿島神宮と同じ構造である。そして、その左奥に、要石が。
確かに、凸型だった。東国三社の神域を堪能した一日であった。
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宮崎から約230km。3時間かけて薩摩富士の異名をもつ「開聞岳」を御神体とする、薩摩国一之宮「枚聞神社」に参拝。上の写真は、池田湖の畔から撮った開聞岳。さすがに美しい。ずっと見ていても飽きない。
「枚聞神社」の鳥居の奥に開聞岳が聳える。ご祭神は「大日孁貴命おおひるめむちのみこと」すなわちアマテラス。ご神紋は「四つ割菊」だが、鳥居も拝殿・本殿にも十六菊が配されている。どこかにないか?あった。拝殿手前の「神馬像」の体に見事に、ご神紋が。
敷地はそれほど広くないが、美しい神社であった。
しかし、拝殿・本殿にあった(写真下)、尾長右三つ巴と流れ巴の変形のような神紋が気になった。
ここから、知覧町へ向かうが、途中、海岸沿いからの開聞岳を写真に。やっぱりいい。
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日南市にある「駒宮神社」「吾平津神社」に参拝。まずは、「駒宮神社」。
ご祭神は「カムヤマトイワレヒコ」。高原町の皇子原で過ごした後、ここで幼少時代を過ごしたとされる日向伝説の少宮址。ここには、愛馬「龍石号」とイワレヒコの銅像がある。
シャンシャン馬発祥の地と伝えられている。ご神紋は、「五三の桐」みたいだ。
そして拝殿の奥には、宮崎へ向かう前に鉾を預けた「御鉾の窟」があった。
さて、次は「吾平津神社」。通称「乙姫神社」。ご祭神は、イワレヒコの妻「アヒラツヒメ」。勿論、このあたりは乙姫という地名である。運河をはさんで、鳥居がみえる。
ここは、台風の時に必ずTVに登場する「油津港」のそば。そう油津とは、アヒラツから来ているのだ。神紋は「庵木瓜」のようだ。加江田神社と同じだ。飫肥藩「伊東家」の家紋らしいが、やはり木瓜は、スサノオの匂いがする。???
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今朝は、早朝ゴルフに出かけた。朝5時30分スタート。青島ゴルフ倶楽部だ。5時15分到着。まだ真っ暗だ。25分くらいから、一望できる太平洋から少しずつ光が。夜明けだ。30分~まだ暗い。35分~パター練習はできそうだ。40分スタート。1打目を皆打つがボールはまだ良く見えない。2ホールからやっと朝が来た。10時に終了。風呂に入り、地元海鮮の店「網元」でちらし丼を食べ満腹。
さて、そのあと帰り道なので近くの「木花神社」「加江田神社」を参拝。まず「木花神社」。
木花神社のご祭神は、「コノハナサクヤヒメ」。ここにも西都の都萬神社同じようにニニギノミコトとの結婚、三皇子の出産の伝えがある。三皇子が産湯に使ったとされる「霊泉桜川」や産屋である無戸室(うつむろ)の跡とされるものもある。誰も訪れないような古びた神社であった。残念だ。
その後、「加江田神社」にも参拝。こちらは、天照大御神をご祭神とし加江田伊勢神宮と称していた。宮崎で、天照大御神を主祭神とする神社は、名がある神社では実は少ない。天岩戸神社東宮、大御神社、榎原神社、加江田神社くらいか。
さほど広くはないが大きな杉に囲まれた趣のある境内であった。さて、ご神紋だが、何故か「庵に木瓜もっこう」というもの。かつて、この地を治めていた伊東家の家紋らしい。しかし瓜といえば素盞嗚。何故?不思議だ。加江田神社と同じ日に近くに熊野神社(熊野という地名もある)でもお祭りがある。熊野といえばやはり素盞嗚。やはり・・・。
さて、コノハナサクヤヒメを祀る「木花神社」と薩摩国一之宮であるニニギノミコトを祀る「新田神社」。夫婦を祭るこの二つの神社は、真東ー真西の一直線で結ばれている。これもまた不思議だ。 <新田神社;北緯 31.493937 - 木花神社;北緯 31.493944>
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雨の中、西都市訪問。目的は、「記紀の道」探訪。まずは、再拝「都萬神社」へ。
ご祭神は、コノハナサクヤヒメ。天孫降臨ニニギノミコトの妻である。コノハナは桜の花。その為、当神社のご神紋は、「桜」。拝殿にも神紋が施されている。
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ご当地は、日向伝説のニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの出逢いと結婚・出産にちなんだ伝承j地を辿る「記紀の道」というのがある。
①御船塚・・・地上に降り立ったニニギノミコトの一行が舟に乗って着いたところで、その時の舟が祀られている。
②逢初川・・・ニニギノミコトが、水を汲みにきていたコノハナサクヤヒメと初めて出会い、見そめられた場所。
③八尋殿・・・結婚したニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの新婚生活のために建てられた御殿の跡。
④無戸室・・・コノハナサクヤヒメが出産のために造った産屋の跡。
⑤児湯の池・・・火の中で生まれたホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)の3神の産湯に使ったところ
是非、お尋ねあれ!!
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西都から、米良街道を山奥へどんどん進んでいく。1時間約25km。そこに「銀鏡」という地名がある。<しろみ>と読む。その細い道沿いから川をわたった所に「銀鏡神社」はある。ご祭神は、イワナガヒメ。大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘にして、コノハナサクヤヒメの姉にあたる。
ニニギノミコトがコノハナサクヤヒメを娶るとき、大山津見神は木花佐久夜姫と共に、姉の石長姫(イワナガヒメ)も一緒に結婚させるつもりだった。しかし、石長姫はご面相がよくなく、迩迩芸命は一日で石長姫を親元に帰してしまったのだ。子孫たちが、木の花の咲くように栄え(木花佐久夜姫)、岩のように永く続く(石長姫)という願いは絶たれた。これにより、天皇家の子孫たちの寿命は短いものとなったという日向伝説がある。この境遇を嘆いた石長姫が、わが姿を映す鏡を遠くへ放り投げたところ、これが西都市銀鏡(しろみ)付近(米良山中、龍房山)の大木の枝にかかり陽光、月光を浴びて白く輝いていたという。これが今の「銀鏡神社」の場所だという。もちろん、御神体はこの鏡である。12月には、ここで銀鏡神楽 三十三番が奉納される。
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過去3年、初詣にて会社で御祓いをしてもらっている「宮崎神宮」。はじめて一人でゆっくり参拝。地元では「神武さま」で通っている。ご祭神は、言わずと知れた「神日本磐余彦尊:かむやまといわれひこのみこと」。別宮は、イワレヒコが生まれたとされる高原町の狭野神社だ。左右に両親である、ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリヒメが配祀されている。創建は、イワレヒコの子孫、阿蘇神社(肥後一ノ宮)の祭神タケイワタツノミコトである。神宮だけあって、いたるところに十六八重菊の神紋がほどこされている。しかし、宮崎神宮の神紋は「三つ割菊に矢」である。ここは、由緒にもはっきりと描かれているが、建物には見つからない。やはり社務所だ。あった。入り口の扉に。社務所に職員でお願いして、扉を閉めてもらい写真を撮らせてもらう。それが下の写真だ。
*神宮とは、天皇・皇室の祖先神や大和平定に功績のある特定の神を祭神とする神社をいう。全国に23社しかありません。
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都農神社には、ご神紋が二つある。「十六菊」そして「丸に一」。天皇家につながる「十六菊」はあとで加えられたのであろう。なにしろこの神社に「菊」は明らかに不似合いだからだ。しかし、肝心の「丸に一」の神紋は建物のどこにも飾られていない。御由緒にも「十六菊」しか記載されていない。地元出身の女子社員に聞いたところ、夏のお祭りには、皆、「丸に一」の神紋がついた法被を着るというのに。社務所でどこかに使われていないのか?尋ねるが、全く使われていないとはっきりいう。残念。しかし見つけた。ふざけるな!あるじゃないか。それも何と社務所に入り口の軒の下にはっきりと!(写真:下)
何故隠すのか?出雲系の神紋は、「有」・「大」など文字が使われている場合が多い。「一」も当然、出雲系。ご祭神:大己貴命、摂社:素盞嗚神社、末社:熊野神社。まさしく出雲系。やはり、都農神社は、天孫族お膝元の日向国の謎の神社だといえよう。
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いざ 高千穂へ。3度目の訪問。まずは天岩戸神社でご朱印をいただき、社務所に頼んで、禁足地(神職でさえ)である岩戸を眺めることができる「天岩戸」遥拝所へ案内してもらう。拝殿(↓写真)の後ろへ向かい、岩戸川を超えで<岩戸>を眺める。まず禊(みそぎ)払いをして鍵のかかった遥拝所へ。
残念ながら、遥拝所は撮影禁止。ご神体である岩戸は、拝殿真後ろではなく、すこし左にあるので、遥拝所の軒は、その方向に少し斜めに木が組まれていた。この拝殿があるのは、西本宮といわれている。天岩戸神社には、東本宮というのが、岩戸川の向こうにあるので、そちらにも参拝。たぶんほとんど訪れる人はいないのだろう。誰もいなかった。岩戸伝説でお隠れになった天照大神が岩戸よりお出ましの際、この東本宮の土地にお鎮まりになったとされます。ここ東本宮は、直接的に大神の息吹に触れ、ご加護をいただくための貴重な場所でもある。
西本宮が大日孁尊(おおひるめのみこと)を祀るのに対し、この東本宮が天照皇大神を祀る。まあ、別称ではあるが知っておきたいところだ。参道の途中に天鈿女 (あめのうずめ)の像があったのでパチリ。
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天孫降臨の記述は、古事記に「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りまさしめき」とある。また日本書紀には「日向の襲の高千穂のくし日の二上峰に至りて・・・」とある。この二箇所に鎮座する神社を訪ねた。もちろん誰一人もいない。
まずは「槵觸神社」、 くしふる と読む。もちろんご神体は、くしふる山だが、高千穂町の中にあるちいさな小山であった。しかし拝殿までの階段はかなりのもの。ぜいぜい言いながら登っていった。ご祭神は、天児屋根命 経津主命 天津彦々火瓊々杵尊 天太玉命 武甕槌命。
もう一つは、「二神神社」。
高千穂の町並みを離れ、五ヶ瀬へ向かう道から奥深く、離合も困難なほどの狭い道を延々と進むと、二上山が見えてくる。その中腹に「二上神社」はある。もちろん人っ子一人いない。ご祭神は、伊弉諾尊 イザナギノミコト 伊弉冉尊 イザナミノミコト である。こちらも拝殿までの階段が恐ろしく急で多い。途中で休みながら何とかたどり着く。
ご神体「二上の峯」に向かって参拝。
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京都では、賀茂別雷神社と八坂神社へ参拝。まずは、八坂神社を紹介。大学時代4年間でたぶん一度だけ、それも通り過ぎただけかもしれない祇園社「八坂神社」は、言わずと知れた「素盞嗚命」をお祀りする神社で、その総本山ともいえる。また、櫛稲田姫はじめ、八人の御子が揃って祀られている。八人の御子とは、八島茶見命(八島野尊)・五十猛尊・大屋津比賣命・抓津比売命・大歳神・宇迦御魂神・大屋毘古命・須勢理比売命である。明治以前は、「祇園感神院」あるいは「祇園社」と称していたが、明治の神仏分離により、八坂神社となった。素盞嗚尊は、牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され、牛頭天王は武塔天神とも称する、厄神である。薬師如来を本地仏としている。
上の写真は「西楼門」です。下の写真が「本殿」です。
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山城国一ノ宮 賀茂別雷(かもわけいかずち)神社。通称:上賀茂神社。ご祭神は、賀茂別雷命。賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社である。
社伝:「日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依売が生まれた。ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れ下って来た。これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子を産んだ。成人し、建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、天に向かって杯を手向け、昇天した。それが、祭神:賀茂別雷命である。」
果たして、賀茂別雷命とは?下鴨神社のご祭神が、賀茂建角身命。また名を八咫烏。社伝によると、賀茂別雷命の祖父らしいが、上・下の関係をみると少し怪しい。もし祖父・孫の関係なら、上賀茂が、建角身命で、下鴨が別雷となるのが普通だ。すると賀茂別雷命とは?などと考えながら参拝するが楽しい。
さて下の写真は、細殿と盛塩の起源といわれる「立砂」で、ご神体の神山(こうやま)<神社北2キロの山>をかたちどったものらしいです。
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古代日本史は、三輪山・大神神社を抜きにしては語ることはできない。伏せられた或いは改竄された歴史を紐解くとき、いつもこの三輪山の存在から語られる。梅原猛氏は、三輪山こそ「ヤマタノオロチ」だとし、また出雲天孫族以前の大神「ニギハヤヒ」を祭る山だとも語られる。真実は未だにわからない。ご祭神は、大物主大神(おおものぬしおおかみ)またの名を倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)である。
浄めの手水舎は、もちろん「蛇」であった。巳(ミイ)さんから清めの水をいただくのだ。
拝殿も重厚感ただよう檜の皮葺き。奥に、三つ鳥居があり神霊「三輪山」を拝する。
オリジナルの御朱印帳を購入。やはり、朱印は「大神神社」から。もう一冊、全国一ノ宮御朱印帳も一緒に。一枚目は、大和の国一ノ宮「大神神社」が似合う。
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まずは、「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社。
御祭神は、狭井坐大神荒魂大神。社殿左手奥に、ご神水の井戸があり病気の平癒に霊験あらかたという。そして、三輪山への入山は、この拝殿右手から登る。残念ながら時間がないので断念。また必ず登りに来てみたい。
そして、若宮社 大直禰子神社。
古事記には、<崇神天皇の時代に疫病が大流行し、三輪山の大神が天皇の夢枕に現れ、「意富多多泥古」という者を探し出し、自分を祀らせよ、さすれば祟りもあさまるであろう>と告げた。その大田田根子を御祭神としている。その手前に巨大な「おだまき杉」の株が。三輪の七本杉らしい。
この他、日向御子神(たぶん神武天皇)を祀っている「神坐日向神社」。唯一この桜井で天照大御神を祀っている「檜原神社」にも行きたかったが、時間がなく断念。残念!
しかしやはり大神神社には、素盞嗚の変名とされる神や一族を祀った、摂社が多く見られた。神宝社(熊野夫須美神・御子速玉神)、市杵島姫神社、貴船神社(おかみ神)などなど。
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三輪山のそば(西側)に、鏡作と名の付く神社が、5つある。八尾の鏡作坐天照御魂神社、石見の鏡作神社、宮古の鏡作神社、保津の鏡作伊多神社、小坂の鏡作麻気神社だ。その中で鏡作坐天照御魂神社を参拝。祭神は、中央に天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと){旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命}、左右に、鏡作部の祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)、天糠戸命(あまのぬかとのみこと)の3神です。石凝姥命は、天照大神がスサノオの乱暴に怒って天岩戸に隠れた時、彼女を岩戸から誘い出す方便として八咫鏡(やたのかがみ)を作った神で、天糠戸命は、その父である。
「崇神天皇6年、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。当社はその(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」
社宝として三神二獣鏡が伝えられるが、これは三角縁神獣鏡の外区が欠落したものらしい。
鏡作神社は、三輪山山頂から冬至の日に朝日が昇るといわれている。また、出雲にある岩見という地名も興味深い。物部氏の流れを感じる。
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大和神社(おおやまと)。ご祭神は、中殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。社伝によれば、崇神天皇の代、国内に疫病が蔓延したため、宮中に祀られていた天照(あまてらす)大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)神の神威を畏れて、二神を宮中の外に祀ることにした。崇神天皇6年、天照大神は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)によって笠縫邑で祭祀されることになり、一方、倭大国魂神は淳名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)に託して祀ることになったが、淳名城入姫命は髪が落ち体がやせて、この神を祀ることができなかった。そこで、翌年市磯長尾市(いちしながおち)に命じて鎮め祀らせたという。
第二次大戦中、世界最大の不沈戦艦といわれた戦艦「大和」は、守護神として艦上で大和神社の分霊を祀っていたらしい。そのため戦艦大和と運命を共にした、伊藤整第二艦隊司令長官以下2717柱の英霊、巡洋艦矢矧を中心とする第二水上特攻隊の3721柱の英霊が合祀され国家鎮護の神として祀られています。
もとは、現在の長岳寺の場所にあったらしいのですが、これは、大神神社ー石上神社を結ぶ線上に位置します。
何か因縁がありそうです。(地図を拡大してご確認ください)
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途中、箸墓古墳に寄る。卑弥呼の墓という説がある有名な古墳だ。三輪山の麓、「纒向遺跡」の南端の桜井市大字箸中に所在する前方後円墳。全長282m、後円部径157m、高さ22m、前方部幅125m、高さ13m。崇神天皇の叔母、倭迹迹日百襲姫尊命(やまとととひももそひめのみこと)陵 大市墓(箸大墓)とされている。
「日本書紀」崇神天皇10年9月の条
時に大神恥じて、忽ちに人の形となりたまふ。其の妻(みめ)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)でむ」とのたまふ。よりて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、御諸山(みもろのやま)に登ります。ここに倭迹迹日百襲姫命仰ぎ見て、悔いて急居。則ち箸に陰を撞きて薨(かむさ)りましぬ。すなわち大市(おおち)に葬(はぶ)りまつる。故、時人、其の墓を號(なづ)けて、箸墓(はしのはか)と謂ふ。この墓は、日は人作り、夜は神作る。
とあります。写真は礼拝所で、この古墳は陵墓に比定されているため、宮内庁管理になっていて、一般の人は立ち入り出来ないようです。
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物部氏の総本山。物部氏の遠祖宇摩志麻治命(うましまじのみこと)をもって宮中に奉斎したと記し、崇神天皇七年物部伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が大臣のとき、詔により天社、国社を定め八百万神を祀らせ布留御魂神とともに石上高庭の地に祀ったのを創始とする「石上神社」を尋ねる。ご祭神は、布都御魂大神。さらに配祀として 布留御魂大神 布都斯魂大神。さらに宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命。ご神体は、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)である。この剣は、ヤマタノオロチを素盞嗚が斬った剣である。宇麻志麻治命は、素盞嗚の子「ニギハヤヒ」の長男。そして摂社に出雲建雄神社 がある。やはり出雲・素盞嗚系である。そうすると、布都・布留・布都斯は誰なのか予想は付くというものだ。
三輪山より、山野辺の道の最北「石上神社」は、古社にふさわしい落ち着きのある静謐な社であった。
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宮崎への帰路は、国分・隼人経由で。途中、鹿児島神宮へ参拝。大隅国一ノ宮だ。ご祭神は、天津日高彦穂穂出見尊。すなわち山幸彦である。神紋は、もちろん「十六八重菊」。さすがに立派な拝殿で、天井格子には花や野菜などが鮮やかに描かれており、美しい。
境内の樹齢800年の御神木である大クスも立派なものでした。さすが宇佐神宮と八幡宮総山を争っただけはあります。「正八幡宮」との名乗りに誇りを感じます。何故八幡宮かというと、実は相殿に仲哀天皇・神宮皇后・応神天皇・皇后を祭っているからです。他に「龍の亀石」などがありました。これは浦島太郎伝説の名残りか??
さて、この大隅の国一宮「鹿児島神宮」と日向の国「都農神社」を結び、鵜戸神宮を結ぶ三角形は、鵜戸神宮を頂点とした二等辺三角形となっている。(鵜戸ー鹿児島・都農ー鵜戸 約69km)また、都農ー鹿児島ラインをさらに伸ばしてゆくと、降臨伝説の地、野間岬(笠沙岬)の野間神社へぶつかる。また、さらに都農側を東に伸ばすと、淡路島 伊弉諾神宮へと到達する。そして、鹿児島神宮を頂点に鵜戸・野間がまた二等辺三角形でもある。
じつにおもしろい。
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鹿児島・熊本・宮崎 3支店(4名ずつ)対抗でのゴルフコンペ。場所は、老舗の霧島ゴルフクラブ。霧島高原にある林間コース。遠くは桜島、近くに韓国岳・高千穂峰を見ながらのプレー。上位3名による対抗戦では、宮崎チームが優勝したが我がスコアは、52:43=95 と今ひとつ。出だしが悪すぎた。しかしドックレッグの多いコースだった。
プレー後は、いざ鹿児島へ。食事はもちろん黒豚。せいろ蒸しのしゃぶしゃぶとめずらしい食べ方。黒牛・しゃも等一緒にいただく。美味!肉が下に落ちて野菜の風味を醸し出す。
「華蓮」というお店。お勧めです。(人気なので予約が必要だそうです)。その後、天文館のスナックへ。満足の一日であった。11時には、サッカーがあるので、急いでホテルへ。ガンバレ!!日本。
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金・土曜と広島へ会議で出張した。夜は、皆で「牡蠣料理」で会食。その後、二次会は三々五々となったが、せっかく広島へ来たのだからと、徳山のS氏と二人で、<お好み村>へ。お好み焼き屋が25軒もあるビルだ。最初に目指したお店はすでに閉店していたので、タクシーの運転手が言っていた店に向かおうとしたが、偶然エレベーターに乗り合わせた老夫婦に「どちらがお勧めですか?」と尋ねたところ「源蔵」という店を教えてくれた。3階へまた戻り、その店へ。大正解!うまい!!店の壁には、有名人の写真がいっぱい。ジャイアンツ時代の松井や佐々木をはじめプロ野球選手、ゴン中山・北澤などのサッカー選手などなど。この写真も十分楽しめる。しかし、やはり食い過ぎだな。
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小林市へ出かけた帰りに5分程、神社にお参りに。
霧島六社権現の一つ「霧島岑神社」へ。御祭神は(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫、彦火火出見尊、豊玉姫、鵜草葺不合尊、玉依姫)。参道の入り口に仁王像が立つ。そこから、長い階段を登ったところに境内がある。静かな境内へ入り口の、高く高く聳える杉は印象的だ。
現在の岑神社は、夷守(ひなもり)神社合併されたもので、霧島六社権現とは、霧島神宮・東霧島神社・狭野神社・霧島東神社・霧島岑神社の5つということになる。たぶん、高千穂峰そのものがご神体であったのだろう。
また、仁王像の仁王とは、金剛力士のことである。それは「金剛杵(こんごうしょ)(古代インドの武器を元にした密教の法具。あらゆる煩悩を打ち砕く象徴)を持つもの」の意味であります。2体は、金剛杵を持ち口を開いた阿形像(あぎょうぞう)と、口を閉じ宝棒を持つ吽形像(うんぎょうぞう)です。「阿吽の呼吸」とよく言われますが、阿は「あ」で言葉の始まり、吽の「ん」で言葉の最後で、法の始まりと究極とを象徴しているそうです。勉強にになります。
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阿蘇の火口へ。20年前にも家族へ来たのだが、エメラルドグリーンの火口がほとんど記憶にない。記憶とは当てにならないものだ。それともその日は噴煙が多くて火口が見えなかったのだろうか?
草千里付近では、バスや車を邪魔するお馬たちに遭遇。
そして米塚の写真。
これは、草千里下の草原にある可愛い小山。小さな火口丘の跡。標高は954mであるが山下から頂上までは約100m程度しかない。頂上には直径約100m、深さ20m程度の火口跡が「くぼみ」として残っているらしい。この山には伝説がある。健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、収穫した米を積み上げてできたという伝説だ。頂上のくぼみは、命(みこと)が貧しい人達に米を分け与えた名残だと言われています。
さて阿蘇には、日本一長い名前の駅があるので寄ってみた。「南阿蘇水の生まれるさと白水高原駅」がそれだ。
トロッコ列車も通る可愛い駅であった。
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熊本の高森町へ入る。まず絶景といわれる月廻り公園へ向かうが、あいにくの雲で 阿蘇 根子岳はすっかり雲の中(下の写真)。残念。
目指すは、白川水源。
さすがに水量がちがう。そして美しいまでの透明さ。水の生まれる里と言われるだけある。
宿泊は、「垂玉温泉山口旅館」。秘湯だ。お風呂は、大浴場、かじかの湯(半露天)、家族風呂、混浴露天風呂と色々あった。
夜遅く少し離れた露天風呂へいったが、すぐ側に「金龍の滝」があり、趣きも最高であった。お湯も肌に優しい感じの温泉だ。
Hpを紹介しておく。
垂玉温泉山口旅館(クリック)
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土曜の夜から「かみさん」が宮崎へ遊びに来ている。この日は、時間が遅かったので夕食は、お好み焼きで済ませ、いつも仲良くさせてもらっている、BAR「NIGO」で12時近くまでお酒&カラオケで楽しむ。
今日は、高千穂へ向かう。朝は大変良い天気であったが高千穂へ近づくあたりから雲行きが怪しい。まずは、天岩戸神社へ。その頃には、なんとどしゃぶり。
もちろん、天照大神を祀る神社で、参拝者は、社殿で 大鏡にお祈りするのだが、実は御神体は、拝殿の後方の対岸にある洞窟(天岩戸) で、実は天岩戸を拝んでいるわけだ。そこから前回は行けなかった天の安原へいくが、濡れ鼠状態となる。
上の写真の左側に「仰慕窟」(ぎょうぼがいわや)という間口30m・奥行き25m
の大きな洞窟があり中に鳥居と社があるのだが、恐れ多くて写真は撮らなかった。
天岩戸神社をあとにして「真名井の滝」のある高千穂峡へ。今日は意外と観光客が多いが残念ながら突然の大雨でボートは中止。写真だけはきっちりと収めた。
最後に、高千穂神社へ。
この頃から、雨も上がり日差しが戻り始めていた。高千穂神社の御祭神は多く
高千穂皇神 天津彦火瓊々杵尊・木花開耶姫命、彦火火出見尊・豊玉姫命、鵜葺草葺不合尊・玉依姫命
十社大明神 三毛入野命・鵜目姫命、大郎命・二郎命・三郎命・畝見命・照野命・大戸命・霊社命・浅良部命
となっている。
境内には、第十一代垂仁天皇の勅命により我国で始めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建せられた際用いられた鎮石が置かれていた。
「道のえき」でやっと遅い昼食。「ちゃんどん」というチャンポンの具のうどんを食べる。延岡駅で食べたことがある。この地方の名物だろうか?あとで調べてみよう。そして いよいよ阿蘇へ。 つづく・・・
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日向国一ノ宮たる「都農神社」へ。大きな杉林の参道は、荘厳で圧巻。拝殿は、建て替えられたのだろうかなり新しかった。
都農神社は都萬・霧島・江田と並ぶ、日向式内四座の一社だ。都農神社由緒によれば神武天皇御東遷の際に、宮崎の宮を御進発になり、途中、都農において祭壇を設け、国土平安海上平穏武運長久神助を祈念したという。この鎮祭されたのを創祀と伝えている。しかし、ご祭神は、かの大巳貴命(おおなむちのみこと・大国主命)。そして摂社には、素盞嗚社(素盞嗚命) を祭る。上記のような由緒があり、しかも日向天孫族の中心地でありながら、何故に出雲系の大神が祭られているのか、前々から疑問だ。当然ながら、由緒にもこのことは何も触れられていない????
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宮崎に美々津という地がある。神武東征の時に、カムイワレヒコ(神武天皇)ら天孫族らが、この港(美々津の渡し)から大和へ向けて旅立ったとされる場所だ。
そこに「立磐神社」はある。神武天皇と住吉三神を祀っている神社です。
古くて小さな社であった。すぐそばに耳川が流れている。美々津の町並みは、昔の廻船問屋などが連なる趣のある場所であった。そしてこの神社の側には、日本海軍発祥の地の石碑が見事に立っていた。
天気が悪く、文字が見えにくいが「日本海軍発祥之地」と彫られている。
日本海軍は、天皇が統治された海軍である。このことから国が、神武天皇親率の水軍が初めて編成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、紀元二千六百年記念事業の一環として建立された。碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米井光政の揮毫により、碑面に刻記されたものらしい。この碑は、大東亜戦争の終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されたが、昭和44年、地元有志の強い要望により、防衛庁(海上自衛隊)などの協力を得て、現在の通り復元されたとのこと。宮崎に着たからには、とにかくここに来たかった。
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皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳らかではないが、当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば、往古・皇大御神・日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の磐石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を奉祀して平安を祈念されてと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て、皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。
上の写真がその「神座」だ。この地は、あの君が代に謳われる<さざれ石>が見られる。
【さざれ石】 ( 細石 )
集まった小さな石の隙間が炭酸カルシュウムや水酸化鉄等で埋められ、小石がコンクリート状に凝結して固化したものを総称してさざれ石と呼んでいます。
そいうえば、北京オリンピック、中国の地で金メダルの度に、何度も「君が代」が演奏されるのが、小気味いい。
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太宰府天満宮を久しぶりに参拝した。高校受験前に母と参拝しにきて以来30年ぶりだ。太宰府天満宮は、言わずと知れた学問の神様「菅原道真」を御祭神として祭っている。がしかし知らないことが多くあった。今日の参拝とご案内で驚くべきことを多く知った。道真の遺骸を牛で曳かせ、牛が動かなくなった場所を墓にせよとの遺志により、現在の場所が「殿」ではなく「廟」として存在し、その地下に道真公が眠っているということ。すなわち参拝と同時に墓参りをしているということ。故にもとは神社ではなく安楽寺というお寺であったということだ。1947年に今の太宰府天満宮となったらしい。
さて、この日は宮司(道真公の子孫にて39代目 西高辻宮司)の御自宅<延寿王院>も見学させてもらい、幕末に7卿落ちで来られ、(大宰府には5卿)3年間 三条実美が住まわれ、高杉晋作と対面した(勿論、龍馬や西郷も)畳に座ることができたことは感慨深いものがあった。久しぶりに「梅が枝餅」もいただいたが、おいしかった。
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今日、西都市へでかけたので「鹿野田神社」という所へ立ち寄りお参りとお祈りをした。
何もない田んぼ只中に鳥居があった。神社自体は主要道路からさらに逸れて田んぼの中を伸びる参道を200mほど進んだ奥にあり、海から12キロも離れた山間にある。
しかし、この神社にある井戸は、塩水なのだ。「鹿野田神社」の御祭神は、ヒコホホデミノミコトすなわち山幸彦だ。神話に登場する「潮満玉(しおみつたま)・潮涸玉(しおひるたま)」が、ご神体としてまつられている。
そして井戸の名前も「潮満玉の泉」という。山幸彦と結婚した海神の娘・豊玉姫が会うために、陸と海とを行き来した道と伝えられている。すこしスクって水を舐めてみた。本当だ。塩辛い。地元では、この社をもっぱら「潮(うしお)神社」と呼ぶ。井戸の水面は、潮の満ち引きに合わせて上下するのだという。不思議だ。
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今日、外回りの際 途中で「潮嶽神社」へ5分ほど立ち寄りお参りとお祈りをした。
「潮嶽神社」は、北郷町にある祭神は、ホスセリノミコトすなわち海幸彦である。海幸彦は、ご存知のように山幸彦に負け、追われた神であり、他に海幸彦を祭る神社は存在しない。しかも、こんな山深い地に・・・。
神社の背後は飫肥杉の産地で、神話の里がどこもそうであるように、ここにも主祭神・海幸彦にまつわる地名が多い。
潮嶽は、弟の山幸彦と釣り針のことで争ったとき、磐(いわ)船で満潮に乗り、越潮(こしおの)山に上陸、ここを潮嶽と称するようになったという。また、船から下りたところが「賢所」。ここは、禁足地となっており、ここには磐船が埋められていると伝える。さらに海幸彦が水鏡を利用し、みそぎをした池が「神池」、祭りのときアマテラスに酒食を出した場所を「饗(きょう)塚」という。
海幸彦が国内を治めた後、この地で亡くなり、潮嶽川上の陵に葬られたと言われ、潮塚があてられている。ちなみに「宿野」は、信仰を集めた同社の宿坊が立ち並んでいたことによるという。
土地では「海幸・山幸」の神話にちなんで、縫い針を他人には貸さない習俗がある。ホスセリは隼人族の祖とされ、日本書紀によれば隼人の声は、犬の遠ぼえに似ているとも書かれている。子供の初参りには、紅で額に「犬」の字を書き、病気封じをして強く育つよう祈願する。これも海幸彦にかかわるものとされている。おもしろい。
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今日は、館山の先にある「ローズマリー公園/シェークスピア・カントリーパーク」へかみさんと出かけた。館山まで高速が開通しており、行きはスムーズにたどり着いた。イギリスのストラットフォード・アポン・エイボンに住んでいたシェークスピアの家を再現させた場所だ。
美味しいローズティーを飲んだり、イベントで開かれていたクラシックの演奏会を聴いたりする 。それ程広いスペースもなく、有名でもないが意外に多くの人が訪れていたい。さすがゴールデンウィークだ。房総半島を海沿いに走り、お昼は「海鮮丼」を食べる。そのあと館山まで戻って喫茶店へ。コーヒー通なら誰でも知っている「SALVIA(サルビア)コーヒー」本店だ。かみさんは、サルビア・ブレンド、私は深煎りコーヒーを飲んだ。うまい!!
帰りは、やはり大渋滞。抜け道を探しながら帰ったがどこの道も車・車・車。どこから湧き出したのかというくらいだ。恐るべしゴールデンウィーク。
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神事の前に唱える祓詞(はらいごと)は、
掛けまくも畏き伊弉諾大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
御禊祓へ給ひし時に
生り坐せる祓戸の大神等
諸々の禍事罪穢有らむをば
祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食せと
恐み恐みも白す
・・・
この「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」にまつわる二つの神社を今日は訪ねた。宮崎のメイン通りは、橘通りと呼ばれているが、当然ここからとられている。
まずは、大淀川のそばにある「小戸神社」。ご祭神はもちろん伊弉諾尊。「小戸」とは、今の大塚地区と下北方地区との間、柏田より広がる下流域の三角州、すなわち旧宮崎市街地全域を指した古い地名である。本来は、大淀川の河口にあったようで、港を守る神として大切にされたそうだ。現在は、何度も場所を移し、少し上流に位置している。
神門をくぐり目の前には、ご神木の見事な「おかだまの木」が。おかだまは、元々は「招魂(おぎたま)」が訛ったものらしい。拝殿も厳かだ。
神社の方に、ご由緒書きをもらい。境内を後にして、阿波岐原にある「江田神社」にむかった。こちらは、伊邪那岐尊、伊邪那美尊の両神を祀っている。
妻である伊邪那美を追って黄泉の国へ行った伊邪那岐が、黄泉から戻った時に、その汚れを祓うために阿波岐原で「禊祓(みそぎはらえ)」をした、と古事記にあることから、阿波岐原はみそぎ発祥の地であるとされ、近くにはみそぎの池(御池)がある。そばには、フェニックスゴルフクラブやシーガイアリーゾートホテルがある。昨日はそこで、部下の結婚式に参列した。由緒ある場所での結婚式とは羨ましい限りだ。
「延喜式」では日向国式内四座の一つとなっている。拝殿の右横から御池へ向かう途中に「みそぎ御殿」というのがあった。そこから少し散策してみそぎ池(御池)へ向かう。
今日も 日向神話を訪ねる半日となってしまった。
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霧島六社権現の内の一社。「霧島東神社」は、高千穂峰の東麓、標高500mの位置にあり、霧島の火口湖の中で最も大きい御池を見下ろす大自然の山中に鎮座している。ご祭神は、伊弉諾尊 伊弉冉尊。噴火を繰り返す自然の厳しさの象徴として山岳信仰の場として日本有数の霊場であり、霧島で修 行をする修験者たちの拠点となったところ。性空上人が開いた。霧島東神社の参道は、高千穂峰への登山道の始まりでもある。朱の鳥居の奥に鬱蒼とした木立が続く。少し登ってゆくと参道沿いに突然、結界で囲まれた祭祀場が。木々に隠れよく見ないが、あきらかに御池に向かっている。ここではいったいどのような祭事が行われるのだろう。
さらに石段を上がったところに霧島東神社の社殿がある。その山門の前には一直線に空に向かって伸びる2本の杉の木が鳥居のごとく注連縄を締めて鎮座していた。
社殿までの道沿いには摂社・末社が並んでいる。その一番手前は、猿田彦命の社だ。
いかにも無造作に鏡が飾ってある。なかなかこんなに近くで神鏡を拝める機会はないのではないだろうか。そして奥に、赤と黒の重厚な社殿。
日向神話を楽しむドライブであった。
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高原町(タカハル)にある、神武天皇生誕の地「狭野」を訪ねた。そこには、霧島六社権現の一つ狭野神社がある。狭野神社は、神武天皇 (カムヤマトイワレヒコノミコト) 幼名、狭野尊(さのみこと) を祀るお社である。境内まで大きな杉の参道が続く。島津氏が植えた400年を超える大杉は、神の御座にふさわしい。
宮崎に来なければ、絶対に知らずにいた場所であろう。狭野は、山々の地とは思えぬ程の平地がある。梅原氏が書いたように、稲作が十分発達しそうな地だ。狭野は、神武天皇の父、ウガヤフキアエズノミコトがこの地に移り(宮之宇都)、神武天皇を生んだとされ、その胎盤を捨てたとされる「血捨之木」や東征の際に渡った「狭野渡し」「馬登」「鳥居原」など神話にある名が多く残る。
東から西へ続く参道の端にある神門をくぐって、右方向に社殿がある。
つまり、社殿は南向きだ。参拝者はL字に歩いて参拝する。
境内は広く、60mを越える狭野杉が立派であった。
非常に趣のある、立派な神社であった。
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あいにく曇り空だったが、朝から「西都原古墳群」を散策。菜の花と桜の風景は、さすがに最高。古墳群は、思っていたより高台に存在した。市街から少し坂を上ってゆくと広大な台地が広がる。
一番手前の古墳は、「鬼の窟」(206号古墳)。直径36.4m、高さ7m の円墳で、墳丘の周囲に外堤と二重の堀有し、西都原古墳群 では横穴式石室を有する唯一の古墳で、最後の首長の墓とされている。6世紀末~7世紀初めに造られたもので、この形式は朝鮮半島や中国を源流とする新形式の古墳らしい。次に観たのは、巨大な「女狭穂塚」「男狭穂塚」<宮内庁の管轄下にあるため、樹木に覆われた周囲は柵で囲まれ、普段は中へ入る事は出来ない>の側に西都原古墳群311古墳の中で唯一の「方墳」である、171古墳。「女狭穂塚」の横にある。
誰も観に来ていなくて、ひっそりと目立たないように「方墳」はあった。墳丘規模は、東西20m 南北21.8m。「方墳」は島根県安来市の大成古墳、造山古墳が全国最大の規模を誇り、その他方墳も出雲に集中しており、前方後方墳の魁もみられる。出雲系であるこの方墳が何故ゆえ、天孫族のお膝元西都原にあるのか?オオクニヌシが日向で暮らし、タキリヒメと結婚し、この地で亡くなり、方形の陵墓を作ったという説がある。おもしろい。ただそれにしては、少し小さい気がする。
その後、西都原考古学博物館を見学。地下に展示物、2階には図書館。3階は展望台になっている。りっぱな建物だ。展望台からは、いくつもの円墳が見える。その後、4号地下式横穴墓や、船塚(265号)、100号古墳などを見て回る。最後の「鬼の窟」までもどり、南にある「姫塚」(202号)を見学。短い時間だったが、少し不思議な空間に触れることができた。
古墳群を離れ、西都市街にある「都萬神社」へ。都農、霧島、高千穂と並ぶ、日向式内四座の一社でした。都萬は「妻」に通じ、ニニギノミコトの妃である「木花開耶姫命」を祀る。「桜」は、コノハナサクヤヒメが語源とされる。古墳群の桜の美しさが頷ける。この神社は、日向国二之宮である。意外に小さな神社であった。
拝殿には宝徳3年(1451年)に献上されたという日本一を誇る巨大な太刀(3.5メートル)が安置されている。そして拝殿の横に、日本酒発祥の地の碑が?コノハナサクヤ姫が3人の皇子を育てるのにお乳の代わりに甘酒を与えたという伝承があるそうです。
宮崎ならではの、古代を偲ぶ休日でした。
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水戸時代に一緒に働いた女性社員2名が休暇で南九州旅行(鹿児島・宮崎・熊本)をするとのことで、宮崎の案内を引き受けた。自分もまだ行ったことがなかった「高千穂峡」へ。日曜日8時30分に宮崎を出発。途中、日向の道の駅などにも寄ったが意外に早く3時間で到着。有名な真名井の滝・天岩戸神社などを見学。冬なので流石に人の数もまばらで、ゆっくり楽しめた。帰りには日向岬へ。馬ヶ背・クルスの海へ。クルスの海(写真)は、 入り江が「叶」の文字に見えることからここで祈れば願いが叶う場所として有名らしい。なるほど確かに「叶う」に見える。前日の晩は、しゃぶしゃぶを食べた後、いつも寄っている焼酎バー「一休」へ。水戸納豆チョコをもらってマスターもご機嫌。ブログにも掲載された。日曜は、地鶏をご馳走した。翌日は、日南へ出かけ(鵜戸神宮・日南メッセを紹介しておいた)、熊本へ向かい「黒川温泉」に泊まるらしい。羨ましい限りだ。宮崎も満喫してもらったことだし。
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今日は、かみさんと日南海岸へでかけた。朝方は雲が多かったが、昼過ぎから青空も出てきた。まずは、青島へ。実は私も初めてだ。神社へお参りにゆき、お土産に「ねずみの土鈴」を買った。来年は子年。そして年男だ。そのあとモアイ像が海に向かって立ち並ぶ「サンメッセ日南」へ。まさに太平洋一望。高台へ立つと地球が丸いのがわかる。イースター島から世界で唯一完全復刻を許された<モアイ像>がおもしろい。そして「鵜戸神宮」へ。鵜戸神宮は日本神話に語られる山幸彦・海幸彦の伝説の舞台となった場所として知られる。神武天皇の父である鵜葺屋葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を祭っている。
ここで有名なのは「運玉投げ」だ。磯辺の奇岩群亀の形をした亀石の背の部分には注連縄で囲まれた桝形の窪みがあり、それをめがけて「運玉」を投げ入れ、見事に中に入れば願い事が叶うという 「運玉」は5個ワンセット(100円)で購入し、男性は左手で、女性は右手で、願い事をしながら桝形をめがけて投げる。やってみた。「なっちゃん大学見事合格しますように!」みごと窪みへ。よし、合格お墨付きだ。
最後は、苔むした城壁に磨り減った石段、槍の刃先にも似た飫肥杉の林が古都その情緒をかなでる飫肥城へ。飫肥はもと5万1千八十石の城下町だ。街づくりも洒落ていて、商人通りは白壁と格子、瓦屋根に代表される日本建築の美を表現で統一されている。わき道には、鯉の放流も。中々風情があってよかった。
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今日は、快晴 朝5時に起きて、奥茨城へかみさんと紅葉狩りに出かけた。袋田の滝に到着したのは8時半。しかし大勢の観光客が来ている。1時間違えば大渋滞であろう。滝周辺の紅葉はすでに終わっていたが、流石に美しい。今日はデジカメを宮崎に忘れたので仕方なく携帯でパチリ。意外ときれい撮れた。滝のてっぺんまで階段がついていて登ったが、完全に明日は筋肉痛であろう。膝も笑っている。その後、竜神の大吊り橋(3枚目写真)にも行った。人が渡れる最長のつり橋らしい。さすがの高さだ。下にはダムで出来た竜神湖(4枚目写真)。そのあと、穴場といわれた「花貫渓谷」へよったが、もう昼近くになっていたので、駐車できない状態。気が短いので早々と断念。そのまま「金砂郷」の蕎麦を食べにいった。さすがに人気は高く。食べるまでに1時間を要した。名物の十割そば、水そばは当然品切れ、仕方なく天ざるを注文。蕎麦はうまい。でもてんぷらはいただけない。延べ11時間、450kmのドライブであった。
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20日~22日と3日間、休みをもらって実家の下関へ。親父の13回忌の法要のため。千葉からはかみさんと弘季。宇部から妹の家族。宮崎から高速で390Km、約4時間の道のりであった。関門海峡手前でパーキングへ。門司側より関門海峡と関門大橋を撮影。
6年ぶりの雄大な眺め。橋の右側「火の山」には高杉晋作の銅像があります。
翌日、法要を済ませて、墓参りへ。お墓は下関から日本海側を約1時間北へ行った阿川という場所にあります。40年間全く変わらない村です。小さい頃は、よく素もぐりをやって遊んだところです。ここは嘉永2年7月10日、かの松蔭先生も立ち寄って一泊した場所でもあります。帰りには、キムタク「HIRO特別編」に登場した「角島大橋」へ。海の向かって走る橋は眺めが最高です。
島の先端には灯台もあります。夕食は、有名な川棚温泉の「たかせ」にてみんなで{瓦そば}と{うなめし}を堪能。2泊と短い滞在しかできなかったが、母親も71歳とは見えないくらい元気で安心した。やはりクラシックダンスを続けているのが健康にいいのだろうか。宮崎から意外と近かったのでまた戻ろう!!
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40日ぶりの我が家である。このPCに向かうのも久しぶりだ。8月は、弘季がママと名古屋に遊びに来て、愛・地球博と名古屋城に出かけた。弘チャンは、どうらや人ごみの地球博よりも名古屋城のシャチホコの方に興味が湧いたようだった。そして知らない間に夏休みも終わっていたのだ。相変わらず名古屋は蒸し暑い。仕事の関係で東京へ戻り19日まで自宅にいられるが、こんなに長い間自宅にいるのは本当に久しぶりかもしれない。台風のせいでかなり荒れているため休日はまた庭の手入れとなりそうだ。
豆知識:
金鯱について
雄と雌の2対で雄が2.57m雌が2.51m。寄木の粗彫に、鉛板を竹釘で張り、その上に鱗型の銅板を銅釘で止め、その銅板に薄い金の延板をかぶせ張りにしてつくられています。金鯱のシャチは伝説的な怪魚で、実在の魚類ではありません。俗にシャチと呼ばれている海にすむ動物は、鯨目、海豚科に属する哺乳動物で、金鯱の鯱とは無関係です。どうやら金の鯱を最初に天守閣にのせたのは、信長の安土城らしいです。他にも秀吉の大阪城、伏見城、家康の江戸城、駿府城などの天守閣には金鯱がのっていたようです。しかし、これらの天守閣は火災にあったり、破壊されたりしてしまい、江戸中期頃には名古屋城だけが金鯱をもつ城となりました。(名古屋城HPより)
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