2007年10月27日 (土)

留魂録 その11

今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。蓋し彼の禾稼を見るに春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成る悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然とも義卿の身を以て云へは是亦秀実の時なり何そ必しも哀まん。何となれは人事は定りなし禾稼の必す四時を経る如きに非す。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十百は自ら五十百の四時あり。十歳を以て短とするは蟪蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せすとす義卿三十四時已備亦秀亦実其秕たると。其粟たると吾か知る所に非す。若し同志の士其微衷を憐み継紹の人あらは乃ち後来の種子未た絶えす自ら禾稼の有年に恥さるなり同志其是を考思せよ。

今日、私が死を目前にして平安な心境でいるのは春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。つまり、農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちは、その年の労働による収穫を喜び、酒を造り、甘酒を造って、村々には歓声があふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終ったことを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。私は、三十歳で人生を終ろうとしている。未だ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えた時なのである。哀しむべきでないかもしれない。なぜなら、人の寿命には定めがない。農事が必ず四季をめぐって営まれるようなものではない。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが、単なる籾殻なのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという者がいるなら、それは蒔かれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。

この章が「留魂録」の白眉をなす箇所であろう。儒教者である松蔭先生は、死への恐怖を思いながらも、神にも仏にもすがることがなかった。ひたすら、知力と意志力で死を克服しようとする姿がこの章に現れている。死を決した中で、四季の循環に悟りを開く。己のつけた実は、きっと同志が受け継いでくれると信じて、己の死を静かに受け入れる姿が現れている。まさに松蔭先生の文章は一字一字が涙であり、一言一言が血である。こうして「留魂録」は松蔭先生を師と仰ぐ幕末の志士達に{バイブル}として作用し、“明治維新”という自分達の手で勝ち取った新時代を構築し、新しい日本を主導したのである。

さて、本日は松蔭先生の命日であることを一言書き添えておく。

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2007年8月 4日 (土)

留魂録 その10

七、

吾れ此の回初め素より生を謀らず、又死を必せず。唯だ誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり。七月九日に至りては略ぼ一死を期す。故に其の詩に云ふ、「継盛唯当甘市戮。倉公寧復望生還」と。其の後九月五日、吟味の寛容なるに欺かれ、又必生を期す、亦頗る慶幸の心あり。此の心吾れ此の身えお惜しむ為めに発するに非ず。抑々故あり。去臘大晦、朝議巳に幕府に貸す。今春三月五日、吾が公の駕巳に萩府を発す。吾が策是に於て尽き果てたれば、死を求むること極めて急なり。六月の末江戸に来るに及んで、夷人の情態を見聞し、七月九日獄に来り、天下の形勢を考察し、神国の事猶ほなすべきものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々たり。吾れ若し死せずんば勃々たるもの決して汨没せざるなり。然れども十六日の口書、三奉行の権詐、吾れを死地に措かんとするを知りてより更に生を幸ふの心なし。是れ亦平生学問の得力然るなり。

私はこの度のことに臨んで、最初から生きる為の策をめぐらさず、また必ずしも死ぬものと思っていなかった。ただ私の誠が通じるか通じないか、それを天命に委ねるつもりだったのである。その後、7月9日になって、ほぼ死を覚悟するに至ったので、次のような詩をつくった。「継盛唯だまさに市戮を甘んずべし。倉公いずくんぞ復た生還を望まんや」と。その後、9月5日、10月5日になって吟味が寛大に見えたことに欺かれ、生きる期待を抱き、大いに喜んだ。これは私がこの身を惜しんだからではない。それには次のような理由があるからだ。昨年の暮、大晦の朝廷の決定は幕府の措置を認めて攘夷を猶予し、公武合体の上で攘夷をしようということだった。今春、3月5日、我が藩侯もそれに従って萩を出発した。私が唱えてきたこともこれで万策尽きたので、死を求める気持ちが強く沸き起こっていた。しかるに、6月の末、江戸に来て外国人の状態を見聞し、7月9日に下獄してからも天下の形勢を考察するうちに、日本国に未来のためになお私がしなければならないことがあると思い、ここで初めて生きることを激しく願うようになったのだ。私がもし死ななかったら、この心に沸き立つ気概はけっして沈みはしないだろう。だが、16日に見せられた供述書によって、三奉行が権力的詐術によって私を殺そうとしていることを知ってからは、生を願う気持ちはなくなった。これも私の平生の学問によって得た力によるものだろう。

漢詩の「継盛」とは明の楊継盛。貧しい生活のなか天文・地理・兵学などの学問に励み、音楽にも長じた。世宗の治世、兵部員外郎の時にアルタン汗の侵入にさいし、大将軍・仇鸞の弱腰を痛撃して罪を得た。のち刑部員外郎・兵部武選司に復活したがふたたび大学士・厳嵩の専権として十罪五奸を暴き、棄死(死罪にされ晒し者)にされる。天下の人はみな涕泣したという。子に10年経ったら開けて読むようにと2首の詩を授けた。「浩気還太虚、丹心照千古、生前未了時、事留與後人。」「天王自聖明、制度高千古、生平未報恩、留作忠魂補」とある。死後7年目にして、穆宗は直諫の功をもって太常少卿を追贈した。後の人はその品行を重んじて、『楊忠愍集』3巻を編した。

倉公とは、前漢の医者。淳干意のことである。前漢の文帝13年(前167)に、ある人が上書して、淳干意には肉刑に当たる罪があると訴えた。肉刑とは、いれずみ・鼻切り・足切り・去勢などの体を傷つける刑罰である。そのために淳干意は、駅伝で西の長安(陝西省西安市)に送られることになった。五人の娘は、父親にすがって悲しんだ。淳干意は嘆いて言った。「子供はいても、男子に恵まれず、差し迫ったときに役に立つ者がいない」すると、末娘のテイエイがこの言葉を痛ましく思い、父に従って西へ同行し、次のように上書した。
「わたくしの父が、斉の役人でありましたとき、国じゅうの人が清廉潔白を称えました。けれども、いま父は法に触れ刑に処せられようとしています。死者は生き返ることができず、肉刑に処せられた者は二度ともとの体に戻れません。みずから過ちを改め、新しく出直そうと思いましても、その道さえ閉ざされてしまいます。願わくは、わたくしが朝廷の召使 として身を捧げ、父の罪をあがないたいと思います。どうか父が行ないを改め、新生の道を歩めるようにしてくださいませ」
嘆願書が上聞に達すると、文帝劉恒はその心意を哀れに思って淳干意を許した。この年、肉刑の法をも廃止した。 テイエイの孝心は、後人にも感銘を与え、長く語り継がれた。現代になって劇化され、映画にもなった。 淳干意は釈放され、家にこもっていると、文帝劉恒から詔があった。

さてこの七章は、松蔭先生が三転して死をを決するにいたる経過を率直に述べている場面である。松蔭先生は、七月中旬、高杉晋作の「男子の死すべきところは」との問いに返信の手紙を書いている。

君は問う。男子の死ぬべき所はどこかと。
小生も昨年の冬投獄されて以来、そのことを考え続けて来たが、

今ついに、死の一字について発見するところがあった。

死は好むものでもはなく、また、憎むべきものでもでもない。
世の中には、生きながら心の死んでいる者がいるかと思えば、
その身は滅んでも魂の存する者もいる。
死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、
生きて大業をなす見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。
つまり小生の見るところでは、人間というものは、
生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ。

この死生観こそが高杉晋作の、その後の生き様を決定付けたといってよいだろう。

留魂録は、いよいよ有名な第八章へと進んでゆく。

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2007年5月26日 (土)

留魂録 その9

要諫一条に付き、事遂げざる時は鯖候と刺違へて死し、警衛の者要蔽する時は切払ふべきとの事、実に吾が云はざる所なり。然るに三奉行強ひて書載して誣服せしめんとす。誣服は吾れ肯へて受けんや。是を以て十六日書判の席に臨みて、石谷・池田の両奉行と大いに争弁す。吾れ肯へて一死を惜しまんや。両奉行の権詐に伏せざるなり。是れより先き九月五日、十月五日両度の吟味に、吟味役まで具さに申立てるに、死を決して要諫す、必ずしも刺違へ・切払ひ等の策あるに非ず。吟味役具さに是れを諾して、而も且つ口書に書載するは権詐に非ずや。然れども事已に爰(ここ)に至れば、刺違へ・切払ひの両事を受けざるは却って激烈を欠き、同志の諸友亦惜しむなるべし。吾れと雖も亦惜しまざるに非ず、然れども反復是れを思へば、成仁の一死、区々一言の得失に非ず。今日義卿奸権の為めに死す、天地神明照艦上にあり、何惜しむことかあらん。

間部「要諫」についてであるが、諫言が取り上げられない時は、間部と刺し違えて死に、護衛の者がこれを防ごうとすれば切り払うつもりであったと、私は絶対に言ってはいない。ところが、三奉行は、強いてそれを記述し、私を罪に陥れようとしていた。このような無実の罪にどうして服することが出来ようか。そこで、私は16日、供述書に署名する席上において、石谷・池田の両奉行と大いに論争をおこなった。私は、死を惜しんでいるのではない。両奉行の権力をたのんでの詐術にどうしても服したくはなかったのである。これより先、9月5日、10月5日の両日の取調べの際、吟味役につぶさに申立てた。死を覚悟して要諫するつもりであり、必ずしも刺し違え、切り払うなどは考えていなかったのだと。吟味役は「よくわかった」と答えたにもかかわらず、供述書には「要撃」と書き込んでいる。これも権力による詐術に他ならないではないか。だが、子とはもうすでにここまできた。刺し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは、かえって激烈さを欠き、同志の諸友も惜しいと思われるであろう。自分もまた惜しいと思わないわけではない。しかしながら、繰り返しこれを考えると、志士が仁のために死ぬにあたっては、とるに足らぬ言葉の得失など問題ではない。今日、私は権力に奸計によって殺されるのである。神々は明らかに照覧されているのだから、死を惜しむところではないであろう。

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間部要撃策の弁解をしている。萩で計画したときは暗殺であった。ところが幕府には「要諫(ようかん)」と述べている。だから間部と刺し違えるとか、切り払うとかは言っていない。無実であるのに罪を犯したと白状させようとするがどうして進んで受けられようか。16日に署名し花押を書くとき論争し、幕吏のごまかしには屈服しなかった。その後の取調べでも申し立てたが、刺し違えや切り払いを受けないのは却って激烈を欠く事になると、考え直す。

身を犠牲にしても仁をなす。正義を貫き通したい。
「今日、義卿(松陰)、奸権のために死す 天地神明 照鑑(しょうかん)上にあり 何惜しむことあらん」 ここに松陰先生の気持がよく出ていると思う。これが死に臨んでの
吾今国のために死す
死して君親にそむかず
悠々天地の事
鑑照明神にあり
という辞世の詩につながるのである。

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2007年4月29日 (日)

留魂録 その8

七月九日、一通り大原公の事、鯖江要駕の事等申立てたり。初め意(オモ)へらく、是れ等の事、幕にも巳に諜知すべければ、明白に申立てたる方却つて宜しきなりと。巳にして逐一口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。因つて意へらく、幕にて知らぬ所を強ひて申立て多人数に株連蔓延せば、善類を傷ふこと少なからず、毛を吹いて瘡を求むるに斎しと。是に於いて鯖江要撃の事も要諫とは云ひ替えたり。又京都往来諸友の姓名、連判諸士の姓名等成るべき丈けは隠して具白せず、是れ吾れ後起人の為めにする区々の婆心なり。而して幕裁果して吾れ一人を罰して、一人も他に連及なきは実に大慶と云ふべし。同士の諸友深く孝思せよ。

七月九日、一通り大原公の事、間部要撃策の事を申立てた。これらはすでに幕府側においても探知していることであろうから、こちらから明白に申立てたるべきとはじめのうちは思っていたのだ。そこで、逐一そのことを自供したのだが幕府は何も知らなかったようだ。幕府側が知らないことを強いて申立てて多くに人々に厄災を及ぼし、無関係の人々を傷つけることは、毛を吹いて傷口を見つける喩にも等しいと後で思い直した。だから間部要撃の件についても「要撃」を「要諫」と言い直した。また、京都に往来する諸友の姓名や間部要撃の時、連判状に署名した人々の姓名も隠して供述しなかった。これは、この後起ち上がるであろう人々のための私のささやかな老婆心であった。果たして幕府の採決は、私一人を罰して、他の人々には一切波及しなかった。実に慶ぶべきことであると思っている。

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毛を吹いて・・・とは「韓非子」大体篇にある。「毛を吹きて小疵を求めず、垢(あか)を洗いて知り難きを察せず」ことさら毛を吹き分けて隠れた小さい傷を見つけるようなことをせず、垢を洗い落として表に見えなかった色を知るようなことはしないの意味。

大原公とは、時の勤皇派公卿 大原重徳。松蔭先生は、大原公を長州に迎え入れ事を挙げようと、大原三位西下策を進めようとしたが失敗している。この時、京に行こうとしたのが、入江兄弟<九一(杉蔵)・和作>で、逮捕・投獄されている。

松蔭先生が間部詮勝の暗殺計画を立てたときに連判状に署名したのは、門下生17名といわれる。連判状は所在が不明で実際は明らかではないが、11名は判明している。入江杉蔵・品川弥次郎・岡部富太郎・佐久間忠三郎・有吉熊次郎・吉田栄太郎(稔麿)・時山直八・久保清太郎・増野徳民・福原又四郎・佐世八十郎(後の前原一誠)である。

さて、幕府が探知していないことを松陰先生が、自白しようとしたことが、死罪を決定付けることとなった。しかし、途中で口をつぐみ、同士の名を挙げなかった為に連座されるものが出なかったのは幸いである。

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2007年4月 6日 (金)

留魂録 その7

此の回の口書甚だ草々なり。七月九日一通り申立てる後、九月五日、十月五日、両度の呼出しも差たる鞠問もなくして、十月十六日に至り、口書読聞せありて、直ちに書判せよとの事なり。余が苦心せし墨使応接、航海雄略等の論、一も書載せず。唯だ数個所開港の事を程克く申し延べて、国力充実の後、御打払ひ然るべくなど、吾が心にも非ざる迂腐の論を書付けて口書とす。吾れ言ひて益なきを知る。故に敢へて云わず。不満の甚しきなり。甲寅(コウイン)の歳、航海一条の口書に比する時は雲泥の違と云ふべし。

評定所にて作成されたこのだびの供述書は誠に簡単なものである。七月九日に一通り申し立てた後、九月五日、十月五日両日の呼び出しの時も大した訊問はなく、十月十六日に至って、供述書の読み聞かせがあり、直ちに署名せよとのことであった。私が苦心したアメリカ使節との応接、航海雄略論などについては、一言も書かれておらず、ただ数箇所に開港のことを程好く申し述べて、国力が充実した後、外国を打払うのが良いなどと。私の心にもない愚にもないことを書き付けて、これを口述書としている。言っても詮無きこととわかったので、もうあえて抗議はしないことにした。甚だ不満である。安政元年(1854年)に、私がペリーの軍艦に乗り込み海外密航を企てて捕らえられた時の供述書に比べると雲泥の差でがあると云うべきであろう。

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松陰先生は、安政元年に渡航(下田踏海)に失敗し自首して調べられた時、供述書に自分の意見が事細かに書かれていたことを想い、今回のこの供述書には落胆するほかはなかった。自分が一番苦心をして述べたアメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考えは一つも書かれず、国力充実の後、打払うべきなど愚かで役に立たないことが口書とされた。先生の「航海雄略」のような主張は、当時の知識人において必ずしもめずらしいものではなかった。しかし松陰先生は、その「雄略」の主体を、天皇に求められたというところに特筆すべき点があった。松陰先生は、「皇国の皇国たる所以」を天皇の存在、さらには「天壌無窮の神勅」という固有性に求めることにより、日本が日本として独立することを根拠づけたのである。また「敵体」・「敵国」という儒学的概念を読み替えることで、天皇を対内・対外双方の主権が収斂する「元首」と位置づけ、国内外における政治主体の問題を解消し、日本を名実ともに「帝国」=独立国たらしむることを目指したのだ。

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2007年3月25日 (日)

留魂録 その6

三、続き

幕府の三尺、布衣、国を憂ふることを許さず。其の是非、吾れ曾て弁争せざるなり。聞く、薩の日下部伊三次は対吏の日、当今政治の欠失を歴詆して、「是くの如くにては往先三五年の無事も保し難し」と云ひて、鞠吏を激怒せしめ、乃ち曰く、「是を以て死罪を得ると雖も悔いざるなり」と。是れ吾れの及ばざる所なり。子遠の死を以て吾に責むるも、亦此の意なるべし。唐の段秀実<ダンジュウシツ>、郭曦<カクギ>に於ては、彼れが如くの誠悃<セイコン>、朱泚<シュセイ>に於ては彼れが如くの激烈、然らば則ち英雄自ら時措の宣しきあり。要は内に省みて疚しからざるにあり。抑々<ソモソモ>亦人を知り幾を見ることを尊ぶ。吾れの得失、当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ。

幕府の法によれば、庶民が国を憂うことを許していない。その是非について、私は弁じたり争ったしなかった。聞くところによると、薩摩藩士 日下部伊三次は、取調べ時に、現在の幕府の政治の欠陥を徹底的に論じ「このような有様では、幕府は三年か五年しかもたないであろう」と言ったため、幕吏は激怒したとのこと。しかもさらに「これで死罪となろうとも悔いることはない」言ってのけた。私などには遠く及ばないところだ。杉蔵が私に死を覚悟せよと言ったのはこの意味かもしれない。唐の段秀実は、郭曦には誠意を持ってあたり、朱泚には、激烈に対し殺された。英雄は、時と場所において、それにふさわしい態度で臨むものである。真に大事なことは、己を省みて疚しくない人格を持つということであろう。そしてまた、相手をよく知り、機を見るということを大事にしておかねばならない。私の人間としての有り様が良いか悪いかは、棺桶の蓋を覆った後、歴史の判断にゆだねるしかあるまい。

三尺とは、昔法律は竹の三尺ほどの簡に描かれたのでこう呼ばれた。また、布衣とは、、木綿や麻でつくられた庶民の服のことで、ここでは「庶民」そのものとして使われている。「布衣の交わり 」という言葉があるが、これは、身分の低いもの同士の交際。 または、お互いの身分地位を考慮に入れない心からのつきあい を意味する。

日下部 伊三次(くさかべ いそうじ)1814-1858 は薩摩藩士で、勤王の志士であった。水戸藩と薩摩藩との使者として暗躍し、朝廷に工作を行っていた。幕府や新撰組の追求から逃れるため深谷左吉、宮崎復太郎と名乗ることもあった。安政五年(1858)安政の大獄により梅田雲浜・橋本左内、頼三樹三郎らとともに獄死している。

段秀実は、唐の人、徳宗(9代目)の司農卿。顕官 郭子儀の子 郭晞が父の威を借りてやり放題だっだので、これを諭し改心させた。松陰先生の郭曦<カクギ>は、誤字であろう。また、朱泚<シュセイ>が謀反を企てた時、秀実に加担を誘ったが、彼は牙笏<ゲシャク>を奪って撃ち面罵したため、殺された。文天祥「正気の歌」に或為撃賊笏 或いは賊を撃つ笏と為りの句がある通り、忠義の人であった。いずれにせよ、松陰先生は、この詮議にあってあくまでも冷静に対処しようとしたことが伺える。

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2007年3月15日 (木)

留魂録 その5

三、

吾が性激烈駑罵に短し、務めて時勢に従ひ、人情に適するを主とす。是を以て吏に対して幕府違勅の已むを得ざるを陳じ、然る後当今的当の処置に及ぶ。其の説常に講究する所にして、具(ツブサ)に対策に載するが如し。是を以て幕吏と雖も甚だ駑罵すること能はず、直に曰く、「汝陳白する所悉く的当とも思はれず、且つ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届なり。」余亦深く抗せず、「是を以て罪を獲るは万万辞せる所なり」と云ひて已みぬ。

私は性格が激しく、罵られると忽ちのうちに怒りを発するのを自覚していたので、日頃より務めて時流に従って、人々の感情に適応するように心がけてきた。幕吏に対してもそのように臨み、幕府が朝廷の意思に背いているのも、それなりの已む得ぬ事情があったとだと認めた上で、これからとるべき適当な処置は何であるかを論じたのである。私の説こうとすることは、常日頃より講究していることで、すでに、「対策一道」に書いたとおりである。そうした私の論に幕吏といえども、さすがに駑罵することができず、ただちに次のようなことを言った。「お前の陳述することが、すべて正しいとは思われない。かつ卑しい身分の分際で国家の大事を語るなど不届き千万である。」私は、それでも強く抗弁もせず、「私の意見を述べることが罪となるのであれば、あえてそれを避けようなどとは思わない」とだけはっきりと言っておいた。

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松蔭先生は、尊大な態度をとる幕吏たちに対しても相当の怒りと不快感を抱きながらも、その気持ちを抑えて謹厳実直にそして温和に対応していたことが伺える。それは、ここに至って自らの意見を正々堂々と述べたいという気持ちの現われではなかったろうか。「対策一道」は安政5年5月12日に毛利慶親公(藩主)に上書されている。幕府とハリスとの条約を朝廷が拒否を示し幕府と朝廷に亀裂が生じた時期である。この時期の松陰先生の論は、単純な攘夷論ではない。「墨夷(アメリカ)は絶たざるべからず」と断言しており、一見攘夷論に見えるが、3年間国富に勤め、しかる後に通商条約を結ぶべきであると説いている。以下 その論文である。

「凡そ皇国の士民たる者、公武に拘らず、貴賤を問はず、推薦抜擢して軍帥(一軍の大将)舶司(大鑑の司令官)と為し、大艦を打造して船軍を習練し、東北にしては蝦夷(北海道)・唐太、西南にしては琉球・対馬、憧々(往来の絶えない様子)往来して虚日あることなく、通漕捕鯨(海上運送と鯨をとること)以て操舟を習ひ海勢を暁り、然る後往いて朝鮮・満州・及び清国を問ひ、然る後広東・咬留(ジャカルタ)・喜望峰・豪斯多辣理(オーストラリア)、皆館を設け将士(将校と兵士)を置き、以て四方の事を探聴し、且つ互市(貿易)の利を征る。此の事三年を過ぎずして略ぼ弁ぜん。然る後往いて加里蒲爾尼亜を問ひ、以て前年の使いに報い、以て和親の約を締ぶ。果して能く是くの如くならば、国威奮興(国家の威力を奮い起こす)、材俊振起(優秀な人材を奮い立たせる)決して国体を失ふに至らず、又空言以て驕虜を懲するの不可なるに至らざるなり。然れども前の論は以て墨夷を却くべし、…」

幕吏は、松陰先生の意見を正すことが出来ないと見るや、卑賤の身で国家を語るのは不届きとなじる。そこでも先生は、じっと耐えているのである。  つづく

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2007年3月 2日 (金)

留魂録 その4

ニ、

七月九日、初めて評定所呼出しあり、三奉行出座、尋鞠の件両条あり。一に曰く、梅田源次郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をなせしや。二に曰く、御所内に落文あり、其の手跡汝に似たりと、源次郎其の外申立つる者あり、覚ありや。此の二条のみ。夫れ梅田は素より奸骨あれば、余与に志を語ることを欲せざる所なり、何の密議をなさんや。吾が性公明正大なることを好む、豈に落文なんど曖昧の事をなさんや。余、是に於て六年間幽因中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江候を要する等の事を自首す。鯖江候の事に因りて終に下獄とはなれり。

7月9日に初めて評定所から呼出があった。三奉行が出座して次の二点について私を尋問した。まず一つは、梅田源次郎(雲浜)が長州に行ったとき面会したというが、如何なる密議をしたのか。今一つは、御所内に落し文があったが、その筆跡は、お前の筆によく似ていると源次郎その他は言っているが、覚えがあるかということであった。梅田は、元来より奸智にたけており、共に志を語るに足らぬ男と思っていた私が、何で密議を交わすことがあろうか。私は、もとより公明正大に行動することは信条としている。落し文などという隠れた陰湿なことなど決してするものではない。私は、此のことをきちんと明らかにしておいて、6年間の幽因生活中に、あれこれと苦心したことを陳述し、ついに大原公の西下を誘い、鯖江候要撃計画のことなどを自供したのである。鯖江候自供の件により、ついに獄に投じられることとなったのである。

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三奉行とは、寺社奉行 松平伯耆守/町奉行 石谷(イシガヤ)因幡守/勘定奉行 池田播磨守の三名である。他に、大目付 久貝因幡守も同席していた。梅田雲浜は元若狭藩士で尊皇攘夷派の志士である。安政の大獄で2番目に逮捕され、獄中死している。上方と長州の物産交易に従事していたが、松陰先生は、雲浜は志士ではなく商人だと見ていたので、好きではなかったようだ。よって密議など有ろうはずがない。もし、自ら老中鯖江候(間部詮勝)暗殺の件を自白しなければ、遠島くらいで済んだかもしれない。遡ること1年10ヶ月、安政5年1月6日、「狂夫の言」を松陰先生は、提出している。大まかは、藩政改革案であるが、そこには、日本国への危機感(通商条約の締結を強要している米国の策謀を警戒もしている)が綴られている。有名な言葉がある。

天下の大患は、其の大患たる所以を知らざるに在り。
苟も大患の大患たる所以を知らば、寧んぞ之れが計を為さざるを得んや。



【訳】
世の中の大いに憂うべきことは、国家が大いに憂慮すべき状態にある理由を知らないことにある。 仮にもその憂慮すべき事態になる理由を知れば、どうしてその対応策を立てないでいられようか。 立てるべきである。

幕府は保身に走り、無策でいる。此の大事に、命を懸けて日本を護ろうするものがいない。それが、松蔭先生には、腹立たしかったのであろう。激烈な松陰先生は、この時期からであった。この章で出てくる自白は、この後の志士達の決起を促す死を覚悟のことであったでろう。

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2007年2月20日 (火)

留魂録 その3

一 (続く)

去年来の事、恐れ多くも天朝・幕府の間、誠意相孚(フ)せざる所あり。天、苟も吾が区々の悃誠(コンセイ)を諒し給はば、幕吏必ず吾が説を是とせんと志を立てたれども、蚊蝱山(ブンポウザン)を負ふの喩、終に事をなすこと能はず、今日に至る、亦吾が徳の非薄なるによれば、今将に誰れをか尤(トガ)め且つ怨まんや。

昨年からの情勢を見ると、恐れ多くも朝廷と幕府の間には、互いに誠意が伝わらない所があり甚だ残念に思う。私の小さくてつまらないながらも一途に貫こうとする誠意をわかってもらえたら、幕府の役人も私の説を聞いてくれるだろうと志を立てたのである。だが蚊や虻が山を運ぼうとしても無駄で、明らかに失敗する喩の通り、ついになすことなく今日に至ってしまった。これも私の徳が薄いためだから、今さら誰を咎め怨むことがあろう。

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ここには、松蔭先生の処刑に臨んでの自然体の境地が述べられているように思われます。ここに至っては、「死」によって「志」を遂げるしかないという境地にいきついていたものと思われます。一緒に起たなかった弟子も、先が見えない幕吏も誰も責めようとしない。ただ己の徳の薄さを嘆いている様は、汚れきった我々の強烈に心に響きます。

蚊蝱山(ブンポウザン)を負ふの喩は、荘子「秋水篇」に登場します。井の中の蛙大海をしらずも出ているところです。「知識が真偽を正確に把握できないのに、荘子を理解しようとすることは、蚊が山を運び、虫が河を渡ろうとするようなものだ。」という言葉があります。蝱の字は、アブという字です。

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2007年2月17日 (土)

留魂録 その2

一(続き)

然るに五月十一日関東の行を聞きしよりは、又一の誠字に工夫をつけたり。時に子遠死字を贈る。余是を用ひず、一白綿布を求めて、孟子の「至誠にして動かざる者未だ之有らざるなり」に一句を書し、手巾へ縫ひ付け携へて江戸に来り、是を評定所に留め置きしも吾が志を表するなり。

(訳)

然しながら、5月11日の東送の命令を聞いてからは、「誠」という字について考えてみた。すると、たまたま杉蔵がこんどは「死」の字を私に見せて、死を覚悟するよう説いてくれた。私としては、そのことは考えないようにし、一枚の白木綿の布を買い求めて、孟子の「至誠にして動かざる者未だ之有らざるなり」の一句を書いて、手拭に縫いつけ、江戸の携えてきた。そして、評定所に留めおいたのも、自分の意志を表すためであった。

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孟子 離婁章 上第十二に「至誠にして・・・」の言葉はある。ちなみに離婁とは、伝説上の人物で、視力が非常にすぐれ、黄帝が珠を失った時、命を受けてこれを探した。離婁は百歩はなれても獣の毛の先をよく見分けたといわれている。さて松蔭先生は、山鹿流兵学者であったが、孟子に傾倒している。孟子の性善説が松蔭先生の心を惹きつけたものと推測する。だが民本思想にある易姓革命は当然否定していたものと考えられる。先生は、野山獄にあった時、牢内にて孟子講義を同じ牢人達に行なっている。(他に、獄中1年2ヶ月 松陰先生は492冊の書物を読んだとのこと)それが後に「講孟箚記」または「講孟余話」となって残っている。「講孟箚記」で松陰先生は、至誠を以下の如く説明している。

文王至誠にして、老を養ふ。故に伯夷・太公動きて興起するなり。天下の人皆動きて是に帰するなり。文王の心、初めより伯夷・太公を動かさん、天下の人を動かんとの心あるに非ず。若し此の心あらば至誠非ず。

(訳)

周の文王は、至誠をもって老人を養った。それ故に伯夷や太公望が感動して奮起したのである。天下の人が感動して王に心を寄せたのである。しかし、文王の心では、その初めに伯夷や太公望を感動させよう、天下の人々を感動させようという下心があったわけではない。もしこの下心があったならば、どのようなことをしても、それは至誠ではない。

と書いている。すなわち、ただ一途の真心こそが至誠であり、松陰先生の生き様の原点であったといえよう。松陰先生は、確かに最後、少し我々から見ても「純真無垢」なゆえに危なっかしい行動が見られる。その行動に際し、高杉や久坂は時期尚早だから静観するようにという。これに対し松蔭先生は大いに怒る。国事は傍観するものではない、「諸友は功業をするつもり、僕は忠義をするつもり」と書き送っている。いかにも松蔭先生らしい激烈さと純真さが出ている。常に下心なく真心をもって一生を生きていく姿に圧倒されずにはいられない。実際、この「至誠」の生き様が多くの弟子達の心に灯りをともし、彼らもまた感化され、感動し行動したのである。晋作も当然その一人である。晋作もまた「至誠」をもって行動し、後に続く者たちの心に灯りをともしたのである。

高杉晋作は、1859年、江戸の伝馬獄に囚われた松陰先生と別れ、萩に帰国した後に一遍の詩を詠んでいる。

我亦藩屏一介臣 満胸豪気幾時伸 

書読了草堂静 笑殺世間名利人
(読み下し)
われまた藩屏(ぺい)一介の臣 

満胸の豪気いずれの時にか伸びん
課書読み了って草堂静かなり

笑殺す世間名利(みょうり)の人

「功名や利欲のみを求める者をあざ笑って退ける」と歌う。この時、晋作の心には功業はない。ただ至誠あるのみか。

Shouinbackkuroshou

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2007年2月11日 (日)

留魂録 その1

余去来巳来心蹟百変、挙げて数へ難し。就中、趙の貫高を希(コイネガ)ひ、楚の屈平を仰ぐ、諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙多士一貫高。荊楚深憂只屈平」といふも此の事なり。

(訳)

私は、昨年来実に様々な思いが移りかわって、それは数え切れないほどである。なかでも特に私がかくありたいと願ったのは、趙の貫高であり、楚の屈平であることは諸君のすでに知るところである。だから、入江杉蔵(子遠)は、私が江戸送りになると知って、「燕や趙にすぐれた士は多いが貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を憂う人は屈平だけであった。」という送別の詩を贈ってくれたのである。

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まず登場する貫高は、趙の国の丞相である。王は、張敖(あの張耳の子)。漢の高祖(いわゆる劉邦)が趙王を侮辱したのを怒り、高祖暗殺を考える。しかし趙王 張敖は自分の指を噛んで血を出し、二心のないことを誓い「おまえたちは何ということをいうのか。先君(張耳)はいったん国を失われた。しかし高祖のおかげで国を回復することができたのだ。 その恩沢はわれら子孫にまで及んでいる。どうか二度と、このことを口にしてくれるな」と言う。しかし貫高と趙午ら10余人は「我らの王は温厚な長者であり、徳義に背く人ではない。が、我らも義として、趙王が辱められたのを黙視するには忍びない。 いま高祖を殺すことが、どうして王の徳をけがすことになろう。事が成就すれば功を王に帰し、失敗すれば、我らが罪を受けよう」と言った。B.C.199 高祖は東垣から帰る途中、趙を通った。貫高らは柏人の宿舎の壁の中に人を置き、待ち伏せて高祖を殺そうとした。高祖は柏人に宿泊しようとして 「県名は何というか」と聞くと「柏人県と申します」との答えである。高祖は「柏人とは、人に迫ることだ」として不吉に思い、宿泊しないで去ったので、 貫高の計画は失敗した。B.C.198 密告があり貫高らの陰謀はばれる。そこで高祖は張敖はじめ貫高ら一味を一斉に逮捕した。同志の者はみな自害したが、貫高だけは 「王は少しも陰謀に加わらないのにみな死んで、いったい誰が王の無実を証明するのか」と言い、囚人車に乗せられて長安に送られ、 張敖の罪が裁かれることになる。貫高は、鞭打たれること数千、鉄針をつきさされたりして、もはや打つべき皮膚がなくなったが「ただ自らの仲間だけで謀ったことで、王は何も知らないのだ」と陳述した。 獄官が貫高を取り調べた顛末を言上すると、高祖は「なかなかの壮士だ。誰か彼を知っている者で、私情で聞き出すようにせよ」と言った。 中大夫の泄公が 「わたしは彼と同邑で、旧知の間柄であります。もともと名を立て義を守って、人に凌辱されず、然諾を重んずる人物であります」と言ったので、高祖は泄公に貫高を訪問させた。泄公は貫高の苦痛をいたわり、平生の心おきない口調で語り合った。貫高は、つぶさに事の起こった原因と、王がこれに関知しなかった事情を述べた。泄公は詳細を報告し、高祖はついに張敖を赦免した。そして高祖は貫高の人となりが然諾を重んずるのを賢明とし、泄公をやって貫高をも赦すと伝えさせた。貫高は喜んで「わが王は確かに釈放されましたか」と言った。泄公は「確かに。さらに上にはあなたの振舞いを多とされ、あなたをも赦されたのです」と付け加えた。 すると貫高は「わたしが死のうとしなかったのは、王の無実を明らかにしたい一念からです。いま王が釈放されたうえは、わたしの責任はすでに果たされ、死んでも恨みはありません。それに人臣として簒殺の汚名を蒙ったからには、何の面目があって再び上に仕えられましょう。どうして我と我が心に恥じないでおられましょう」と言い、 仰いで頚動脈を切り、ついに自殺した。

これが貫高である。

次に登場する屈平は、屈原とも言われている。楚の憂国の詩人である。

あるとき、屈平の才能を嫉んだ上官大夫が懐王に「屈平は自分の功を誇り、驕っている」と讒言する。懐王は怒って屈平を遠ざけた。屈平は王が臣下の言葉を聞かず讒言阿諛の徒が聡明を蔽い、邪説曲論が国事を阻害して方正の士が受け入れられぬのを無念に重い、憂愁幽思して『離騒の賦』一篇を作った。またある時、楚と交戦中であった秦が和睦を申し出てきた。楚王(懐王)は「土地は望まぬ。願わくは張儀を得たい」と張儀の身柄を要求した。張儀は「一介の儀の身が漢中の地に相当するなら」と進んで楚に赴いた。しかし、張儀は詭弁を弄して懐王の寵姫鄭袖に取り入り、鄭袖の言葉聞き入れた懐王は張儀を許して秦に帰らせた。このとき屈平は使者として斉に行っていたが、楚に帰って懐王を諫め「どうして張儀を殺さなかったのですか」と責めた。懐王は後悔して張儀を追跡させたが、時既に遅しであった。さらにある時、秦の昭王は楚と婚姻を通じようと懐王に会見を申し入れた。懐王が出かけようとすると、屈平は「秦は信用できません。行くべきではありません」と忠告した。が、王の末子子蘭は「どうして秦の好誼を拒めようか」と行くことを勧めた。果たして懐王は秦に出向き、秦の地で世を去るのである。子蘭は屈平が自分を憎んでいると聞いて大いに怒り、屈平を江南に移した。屈平は江水の畔を彷徨っていた。そのとき、一人の漁夫が行き会うと「なぜあなたがこのような処に?」と問う。屈平は、「世を挙げて混濁しているのに、我一人が清く、衆人が皆酔うているのに、我一人が醒めているので追放されたのだ」と語った。「聖人というものは物事にこだわらず時世とともによく推移するもの。世が混濁しているのなら、どうしてその流れに従いませぬか。衆人が皆酔うているなら、どうしてあなたも酔いませぬか。あなたほどの才能を抱きながら、なぜ自ら追放されるようなことを」。「『新たに沐する者はかならず冠の塵をはたき、新たに浴する者はかならず衣の埃をはらう』。誰がその身の清浄に塵や埃を蒙るに堪えよう。むしろ長江の流れに身を投じて葬られるほうがましだ!」こうして屈平は『懐沙の賦』を作り、石を抱いて汨羅に身を投じてその幕を閉じたのである。

これが、屈平である。

子遠こと入江杉蔵は、「松下村塾四天王」と呼ばれた一人である。他の三人とは高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎。吉田栄太郎こと吉田稔麿は、1864(元治元)6月 池田屋事件で、割腹し、1864(元治元)7月 蛤御門の変で、久坂玄瑞(23歳)、入江杉蔵(25歳)は、戦死 している。

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さて高杉晋作は、1863年に騎兵隊を結成し活躍するが,翌1864年、野山獄にて80日余り獄中生活を送っている。その時に以下の古詩を詠んでいる。

君不見死為忠鬼菅相公 霊魂尚存天拝峰 又不見懐石投流楚屈平 至今人悲汨羅江 自古讒間害忠節 忠臣思君不懐躬 我亦貶謫幽囚士 思起二公涙沾胸 休恨空為讒間死 自有後世議論公
(読み下し)
君見ずや死して忠鬼となる菅相公/霊魂は尚存す天拝峰/又見ずや石を懐にして流れに投ず楚の屈平今に至って人悲しむ汨羅の江/古より讒間忠節を害す/忠臣は思を君いて躬を懐わず/我亦貶謫幽囚の士/二公を思い起こせば涙胸を沾す/恨むを休めよ空しく讒間の為に死すを/自ら後世議論の公なるあり

讒言のため、「忠臣」であるにもかかわらず不当な末路をたどった菅原道真と屈平に、晋作は自らの境遇を重ね合わせ涙を落とし、そして苦境を克服しようとした。特に評価を後世に委ねるという最後の一節が、たとえ「狂人」と呼ばれて孤立しても、時代の壁に立ち向かおうとした晋作の意志の強さを示しているが、当然、屈平のくだりは、1859年、すなわち5年前に亡くなった松陰先生の思いを同時に重ねていたと思われます。

その1 終わり

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